江川英龍(読み)えがわひでたつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「江川英龍」の意味・わかりやすい解説

江川英龍
えがわひでたつ
(1801―1855)

江戸末期の代官、砲術家。号を坦庵(たんなん)、字(あざな)を九淵(きゅうえん)、庵号(あんごう)を民々亭と称す。通称の太郎左衛門は襲名。詩、書、画をよくし、剣は神道無念流の岡田十松に学び免許皆伝。享和(きょうわ)元年5月13日、伊豆韮山(にらやま)の代官屋敷に英毅(ひでたけ)(1770―1834)の次男として生まれる。1824年(文政7)代官見習、1835年(天保6)代官となり、駿河(するが)、伊豆、甲斐(かい)、武蔵(むさし)、相模(さがみ)にわたる9万石の天領を支配した。殖産興業賄賂(わいろ)の厳禁などの徹底した諸施策により、領内は富裕であった。ことに、甲斐郡内(ぐんない)地方が支配下に入るや、苛政(かせい)一変、「世直し江川大明神」と称されるに至った。支配下の海岸は、江戸湾防御の重要地で、多くの海防建議書を上呈した。1839年海岸巡見に際し、渡辺崋山(かざん)の援助を受けたことから洋学嫌いの目付鳥居耀蔵(ようぞう)と対立、蛮社の獄となる。1841年、高島秋帆(しゅうはん)(1798―1866)の兵制改革案を支持し、自らその門人となって砲術を学び、彼の徳丸原(とくまるがはら)演練に尽力したため、ふたたび鳥居らと対立、秋帆の捕縛に及んだ。1843年鉄炮方となるも、老中水野忠邦(ただくに)の失脚により罷免。以後、農兵論を主張し、海防策の転換を説くが、幕閣からは無視された。この時期、韮山塾において諸藩士に砲術教育を施す。ようやく1853年(嘉永6)ペリー来航直後に登用され、海防、外交の中心として働いたが、まもなく安政(あんせい)2年正月16日、江戸・本所の屋敷で没した。業績としては、伊豆韮山反射炉(国指定史跡)、品川台場築造、戸田(へだ)の造船種痘の支配下への実施、鋭音号令(気ヲ付ケ、前ヘナラエ、捧(ささ)ゲ銃(つつ))の考案、パンの製作などがある。門人には、佐久間象山(しょうざん)、川路聖謨(としあきら)、阿部正弘(まさひろ)などがいる。

[仲田正之]

『戸羽山瀚編『江川坦庵全集』上中下(1954~1962・同書刊行会/戸羽山瀚編著、全4冊・1979~1982・厳南堂書店)』


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