永塚村(読み)ながつかむら

日本歴史地名大系 「永塚村」の解説

永塚村
ながつかむら

[現在地名]小田原市永塚

北は東大友ひがしおおども村、東は曾我そが五ヵ村、西は延清のぶきよ村・西大友にしおおども村、南は千代ちよ村に接し、西を酒匂さかわ堰が流れる。寿永二年(一一八三)七月二五日に源頼朝が走湯山(伊豆山)常行じようぎよう堂に寄進したとされる「長墓郷」(「源頼朝寄進状」県史一)を、「風土記稿」は当村のこととする。天文四年(一五三五)一一月一一日の北条氏綱判物(県史三)によれば「同西郡之内三十一貫三百十九文 長塚村」が湯本ゆもと(現足柄下郡箱根町)早雲そううん寺領として寄進され、小田原衆所領役帳にも早雲寺「三拾八貫七百廿文 西郡長塚村」とある。

近世は小田原藩領。寛永期(一六二四―四四)の村高二八六石、寛文一二年(一六七二)には三九六石、家数二七、うち名主二・本百姓一九・から在家三・酒屋一・紺屋二(「村明細帳」県史四)、貞享三年(一六八六)には家数三五、うち名主二・組頭二・本百姓一三・隠居二・無田一六、人口二六〇、馬一〇。

永塚村
ながつかむら

[現在地名]御殿場市永塚

保土沢ほとざわ新田の北に位置し、村内を北の中畑なかばた村方面から西の印野いんの村、十里木じゆうりぎ(現裾野市)方面へ通じる往還が走る。寛永改高附帳では高一四石余で、すべて畑方。正保四年(一六四七)検地帳(永塚区有文書)によれば、高五三石余、反別は田方一町余・畑方七町六反余、名請人数一九(うち屋敷持一五)。貞享三年(一六八六)の指出帳(同文書)では家数二六・人数一六五、牛六・馬二九。家数の内訳は名主一・組頭二・本百姓一六・水呑七で、本百姓のうち一軒は鍛冶屋。また牛馬数が多いのは、十里木方面へ向かう往還での駄賃付け、印野村や中畑村山林からの材木搬出などが主要な収入源となっていたことによる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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