永光寺(読み)ヨウコウジ

デジタル大辞泉 「永光寺」の意味・読み・例文・類語

ようこう‐じ〔ヤウクワウ‐〕【永光寺】

石川県羽咋はくい市にある曹洞宗の寺。山号は、洞谷山。鎌倉末期、瑩山紹瑾けいざんじょうきんの創建。五老峰伝灯院は、道元など曹洞宗の祖師の語録などを安置したもの。

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日本歴史地名大系 「永光寺」の解説

永光寺
ようこうじ

[現在地名]羽咋市酒井町

碁石ごいしヶ峰西麓の山間にあり、法人名は永光護国禅寺。洞谷山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。「洞谷記」によると山号・寺号は中国の禅僧洞山良价と大陽警玄にちなみ、詳しくは洞谷山大榎峯永光妙荘厳院と称するという。正和元年(一三一二)春、羽咋郡中河なかがわ(現中川町)の地頭酒匂頼親の女(黙譜祖忍)と夫海野信直が加賀大乗だいじよう(現金沢市)の紹瑾に帰依し、酒井さかい保の山野を寄進、翌二年八月紹瑾が茅屋を結び仮の庫裏とした。文保元年(一三一七)八月祖忍の兄酒匂頼基の遺命により父頼親の住居を移建、方丈となし、同一〇月入院儀式が行われた。元応元年(一三一九)か同二年頃永光寺と号したという(同書)

延慶三年(一三一〇)八月三日の酒井章兼売券案(寺蔵文書。以下同文書は省略)、同年八月二八日の酒井利忠売券案によると祖忍が酒井保の山野・田畑を買得、これらの地は文保元年三月二三日鎌倉幕府から安堵され(関東下知状案)、同二年一〇月二五日紹瑾に寄進されている(平氏女寄進状)。草創年は不確定だが、文保二年頃までに寺基が固まったと考えられ、この頃紹瑾が門弟を率いて当寺に本拠を移し、元応元年一二月八日紹瑾と祖忍によって洞谷山尽未来際置文が作成された。この置文の内容については疑点もあるが、当寺を紹瑾の塔頭所とすること、紹瑾・義介の嗣書、懐弉の血経、道元の遺骨、如浄の語録を安置する五老峰を建て、永久に門流が崇敬すべきこと、師檀和合すべきこと、住持職は短期間で交替し輪住制とすることなどが定められ、以降の曹洞宗教団における当寺の位置を確立させる役割を果した。

永光寺
えいこうじ

[現在地名]鷹島町里免

里免さとめんの南西部にある。医王山と号し、曹洞宗。下寺と通称される。本尊は十一面観音。応永年間(一三九四―一四二八)の開山ともいう。文安元年(一四四四)没の月舟妙光が福寿ふくじゆ(現福島町)と当寺の開山であると伝える(「福寿寺縁起」福寿寺蔵)。のち衰退していたのを医王いおう城主の大曲休也が中興、大曲家の菩提寺にしたという。

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百科事典マイペディア 「永光寺」の意味・わかりやすい解説

永光寺【ようこうじ】

石川県羽咋(はくい)市にある曹洞宗の寺。本尊釈迦如来。羽咋郡の地頭酒匂頼親(さこうよりちか)の娘祖忍(そにん)が瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)に帰依し,紹瑾を開山として草創。1319年紹瑾は自身の塔頭所とすること,永久に門流が崇敬すべきことなどを定めた置文(重要文化財)を作成している。1468年焼失,再建後に土御門(つちみかど)天皇から勅願寺とする綸旨を得ている。紹瑾の文書と木印(印文,瑩山)は重要文化財。

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世界大百科事典(旧版)内の永光寺の言及

【紹瑾】より

…のち北陸に帰り,加賀大乗寺の徹通義介(てつつうぎかい)の弟子となり,修行を重ねた。その後,阿波城満寺や加賀浄住寺を開き,1313年(正和2)には能登羽咋郡酒井保の地頭滋野(しげの)信直・祖忍尼夫妻の援助をえて永光寺(ようこうじ),21年(元亨1)には定賢律師の帰依により同国櫛比荘に総持寺(1907年に横浜市鶴見に移転)を開山している。紹瑾は宗祖道元が否定的であった密教的な要素を取り入れ,祈禱を行い,武士や民衆の要求にこたえうる禅風を打ち出し,明峰素哲(めいほうそてつ),峨山韶碩(がさんじようせき)(総持寺2世)などの弟子を養育して同宗発展の基礎を築いた。…

※「永光寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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