精選版 日本国語大辞典 「永井柳太郎」の意味・読み・例文・類語
ながい‐りゅうたろう【永井柳太郎】
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大正・昭和期の政党政治家。明治14年4月16日石川県金沢に生まれる。同志社、関西(かんせい)学院を経て、1905年(明治38)早稲田(わせだ)大学大学部政治経済学科を卒業後、イギリスのオックスフォード大学マンチェスター・カレッジに留学。1909年より早稲田大学で教鞭(きょうべん)をとり、植民政策、社会政策、名著研究、英語を1917年(大正6)まで講ずるかたわら、大隈重信(おおくましげのぶ)主宰の『新日本』主筆として論陣を張った。1920年郷里より憲政会所属衆議院議員に初当選し、7月8日、原敬(はらたかし)内閣を批判して「西にレーニン、東に原敬」との演説を行い、懲罰を受けた。外務参与官、外務次官を経て、1931年(昭和6)立憲民政党幹事長に就任。ついで党代表として翌1932年に斎藤実(まこと)内閣の拓務大臣、1937年に第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の逓信(ていしん)大臣、1939年に阿部信行(のぶゆき)内閣の逓信大臣兼鉄道大臣を歴任した。1940年発会の大政翼賛会では常任総務、東亜局長などに就任した。また、育英制度の確立に努め、1944年大日本育英会の創立とともに会長となった。熱心なクリスチャンで、雄弁家であり、早稲田大学出身政治家の中心的存在であった。『殖民原論』ほか著書多数を残し、昭和19年12月4日死去。
[佐藤能丸]
『永井柳太郎編纂会編『永井柳太郎』(1982・勁草書房)』▽『岩本典隆著『近代日本のリベラリズム――河合栄治郎と永井柳太郎の理念をめぐって』(1996・文理閣)』
政党政治家。石川県出身。早稲田大学卒業後,オックスフォード大学に留学し,帰国後母校の教授として植民政策,社会政策を講義し,そのかたわら大隈重信を援助して雑誌《新日本》の主筆となる。1920年憲政会から代議士となり,帝国議会で〈階級専政を主張する者,西にレーニンあり,東に原敬あり〉とその持ちまえの雄弁で原敬首相を批判したことは有名である。また普通選挙法の成立に尽力した。その後,33年に立憲民政党の代表となり,斎藤実,近衛文麿,阿部信行内閣で拓務,逓信,鉄道の各大臣を務め,40年には民政党の即時解散を主張して脱党し,大政翼賛会で東亜新秩序論を展開。社会学者永井道雄は子。
執筆者:金原 左門
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… 朝鮮人虐殺事件には広く民衆もまきこまれただけに,国民の抗議や批判は甘粕事件や亀戸(かめいど)事件に比しても弱かった。衆議院では田淵豊吉,永井柳太郎が政府の責任を追及し,田淵は最も人道上悲しむべきところの大事件を明らかにして謝罪することを主張したが,これは無視された。翌年3月16日には労働団体等を中心に東京で〈日支鮮人追悼会〉が開かれたが途中で解散を命じられた。…
※「永井柳太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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