水野忠徳(読み)みずの・ただのり

朝日日本歴史人物事典 「水野忠徳」の解説

水野忠徳

没年:明治1.7.9(1868.8.26)
生年:文化12(1815)
幕末幕府官僚。天保9(1838)年昌平黌学問吟味に乙科及第,阿部正弘の人材登用政策のもと,西ノ丸目付を経て浦賀奉行,長崎奉行安政1(1854)年勘定奉行へと進み,田安家家老を経て同5年外国奉行。将軍継嗣問題では一橋慶喜の擁立を望んだが,安政の大獄では処罰を免れる。翌年ロシア士官殺害事件の責任を追及され,西ノ丸留守居に左遷。文久1(1861)年外国奉行再任,次いで小笠原島開拓御用掛を兼ね同地を視察。幕府首脳部の公武合体方針が幕府の権威を損なうとして反対,翌年箱館奉行に左遷されるが,これを拒否するように隠居した。その後も幕府の権威回復への意志は衰えず,文久3年5月,尊攘運動の抑制を計画。井上清直,向山黄村らと共に小笠原長行の率兵上洛に参加し挫折,差控に処せられた。以来,幕府の倒壊目の当たりに見ながら日々を送り,江戸開城ののち激憤のうちに病没

(井上勲)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「水野忠徳」の意味・わかりやすい解説

水野忠徳
みずのただのり

[生]文化7(1810)
[没]慶応4(1868).7.9. 江戸
江戸時代末期の幕臣旗本。筑後守。痴雲と号した。嘉永5 (1852) 年浦賀奉行を経て安政5 (58) 年7月外国奉行。越前藩主松平慶永に開国和親を説き,遣米使節の一人に選ばれたが果さず (→万延元年遣米使節 ) ,同6年8月辞任。文久1 (61) 年5月外国奉行に再任され,小笠原島領有を宣言したが,翌2年7月箱館奉行に移されて辞任。旗本グループの指導的人物で,老中小笠原長行に従い,幕府権力強化に努めた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「水野忠徳」の解説

水野忠徳 みずの-ただのり

1815-1868 幕末の武士
文化12年生まれ。幕臣。嘉永(かえい)7年(1854)長崎奉行のとき,日英和親条約に調印。勘定奉行,外国奉行を歴任,文久元年小笠原諸島に派遣されて領有を宣言した。公武合体策に反対して箱館(はこだて)奉行に左遷され引退。3年小笠原長行(ながみち)の示威上京に同行して処分された。慶応4年7月9日死去。54歳。本姓は諏訪。通称は甲子二郎。号は痴雲。

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367日誕生日大事典 「水野忠徳」の解説

水野忠徳 (みずのただのり)

生年月日:1815年4月9日
江戸時代末期の幕府官僚
1868年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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