民俗芸能(読み)みんぞくげいのう

精選版 日本国語大辞典 「民俗芸能」の意味・読み・例文・類語

みんぞく‐げいのう【民俗芸能】

〘名〙 民間の社会生活に密着しながら伝承されてきた芸能。祭礼・法会などに伴うものが多い。

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デジタル大辞泉 「民俗芸能」の意味・読み・例文・類語

みんぞく‐げいのう【民俗芸能】

民間の風俗・習慣・信仰に根ざして伝承されてきた芸能。祭礼・法会などに伴うものが多い。郷土芸能

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「民俗芸能」の意味・わかりやすい解説

民俗芸能
みんぞくげいのう

各民族それぞれの地域生活のなかで、住民自らが育て、伝承してきた演劇、舞踊、音楽、およびそれらの要素を備えた儀礼や行事等をいう。地域に根ざし、郷土色に富むところから、以前は郷土芸能、郷土芸術などとよばれたが、これを民俗芸能と言い改める風潮が、1952年(昭和27)の「民俗芸能の会」の結成時あたりから生まれるようになった。郷土の名がとかくその芸能の特性を一小地域内のものと認識させる懸念があるためであり、しかし実際には、この種の芸能には、地域性以前に、民族が普遍してもつ基層的な民俗文化の忠実な伝承がみられるため、これらの芸能を広く民族全体にわたって考察することで民族の芸能の基層を明らかにし、さらに特定階層者によって芸術化せられた芸能と比較することで民族の芸能の発展・変容の経過を明らかにすることができる、との認識からである。1950年に始まった文部省芸術祭執行委員会主催の「全国郷土芸能大会」も、1957年以来「全国民俗芸能大会」と改称するようになり、漸次この呼称が一般化し、定着した(1968年以降は日本青年館主催)。今日、日本で民俗芸能と呼称される類の芸能は、もちろん世界各地にも無数にあるが、外国のものは通常、民族音楽や民族舞踊の名でよばれることが多い。

[三隅治雄]

本質と特色

民俗芸能は、地域住民の生活に即し、その生活に対する住民の祈りの集団的表現として示されたのがその原点であった。すなわち、わが国では、縄文時代晩期から弥生(やよい)時代にかけて農耕生活が普及し、歴史時代に入って稲作を中心とした農耕社会が形成されたが、各地村落では農作物の豊穣(ほうじょう)が即生活の安泰、生命の長久を約束するとの考えから、農耕暦を軸に季節の折り目折り目に神を迎えて祭りを営み、生産の完遂と生命の安息を祈り、あるいは願成就(じょうじゅ)の感謝を捧(ささ)げる儀礼を行った。その儀礼行動が芸能の母胎で、ウタ(歌)、マイ(舞)、オドリ(踊)などはこの種行動の個々に発展したものであった。ウタは、打つ、訴えるなどと通じる語で、言語のなかに宿る言霊(ことだま)の力で相手の霊魂に衝撃を与え、おのが願望を成就させる目的から、願意を盛った呪詞(じゅし)を高唱した。また、マイは回る、旋回するの意で、神人一体の恍惚(こうこつ)状態を得るために旋回した行為が様式化して舞になり、その状態のなかで神の詞(ことば)を述べる形が語物(かたりもの)の祖型となった。オドリは跳躍の意で、集団で跳躍旋回して、これまた神人一如の歓喜を得、またその威力で悪霊追放、災厄鎮圧の目的を果たそうとし、それが華麗な装いを凝らすようになって、さまざまの踊りを生んだ。これらが季節ごとの祭りに年々繰り返し行われて民俗芸能としての内容を熟成させるようになったのである。

 まず新春、年の初めには当年の作物の豊穣を祈願予祝する祭事を催すが、農村では小(こ)正月を中心に、田遊(たあそび)、御田(おんだ)、春田打(はるたうち)、オコナイなどと称する、台詞(せりふ)、物真似(まね)、歌謡などを交えた芸能や、田植踊、えんぶりなどの踊りを演じる。ともに、田の土ならしから代掻(しろか)き、種播(たねま)き、鳥追い、本田の代掻き、田植、田の草取り、刈り入れまでの稲つくりの過程を模擬し、ときに脱穀から俵詰め、倉入れなどのさままで演じるという内容のもので、このように実際の耕作に先だって、あらかじめ稲作が順調に行われて豊作に恵まれるさまを集団で演じておけば、田がそれに感応して、行ったとおりのことが実現できると考えたのである。いわゆる感応呪術、類感呪術の一種で、この信仰に基づいて、漁村などでは浜に船を出して大漁のさまを歌や所作で示すようなことも行った。

 ついで陽春、耕作の開始期になると豊穣祈願の歌舞を演じる土地もあるが、そのころ咲く桜を穀霊の宿りとみ、その落花を押しとどめる鎮花祭の歌舞を演じる風もあった。

 ついで夏の梅雨(つゆ)どきは田植の季節で、田の神を田に迎え、村の女たちが化粧を凝らして歌を斉唱しながら苗を植える。男たちが簓(ささら)、太鼓、笛などを奏し、女たちが恋歌をうたうのも田の神の心をそそるためで、昔は各地に華麗な芸能風景を展開したものであった。また、この時期から秋口にかけては稲の成長のだいじなときで、それだけにこの季節におこりやすい干魃(かんばつ)や暴風雨、冷害、虫害などが人々には恐怖の的であり、また天候不順から発生する疫病も悩みの種で、その恐懼(きょうく)の心情から、それらの災厄の原因を、荒魂(あらみたま)の神やこの世に恨みを残して死んだ人の亡魂のしわざと想定して、それらの荒々しい霊魂を押さえ鎮める祭りを催した。第一には穢(けが)れを払うことが災厄を寄り付かせぬ因になるとして、水辺で祓(はらえ)の祭儀を行うこともあり、また怨霊(おんりょう)を御霊(ごりょう)と尊称し、天竺(てんじく)渡来の牛頭天王(ごずてんのう)の力をも借りて京都八坂郷の祇園(ぎおん)社で御霊会(ごりょうえ)を営むことなどもあった。有名な祇園御霊会がこれで、御霊を鎮送するのに、山・鉾(ほこ)を連ね、鉦(かね)、太鼓、笛をかしましく奏して神泉苑(えん)まで練って行ったのが、のち一段と華やかになって祇園祭の盛儀を生み、この祭礼の形が諸国に流行した。鉦・太鼓を打ちつつ大ぜいで踊り跳ねることが荒々しい魂を鎮め送るのに効があるとの理解から、太鼓踊、鉦踊などの類を各地に輩出させ、念仏を唱えてこの種の踊りを踊れば、なおのこと怨霊鎮送に効があるとして、鉦・太鼓ではやし立てる念仏踊が盛んに行われた。

 秋口の旧7月15日の盆は、旧正月15日とともに、1年を二つに分ける節日と考えられ、この時期、祖霊が訪れるとの信仰があり、さらに地境にさまよう無縁の怨霊なども祭りを受けにくるとして、これらを弔い、魂を鎮めるのに念仏踊をもってすることが普及し、これを基に盆踊りが各地に生まれた。

 この盆から八朔(はっさく)ごろは、稲作にとっては収穫直前のだいじな時期で、そのため豊作祈願の思いを盆踊りや太鼓踊などに込めて演じることがあり、また、このころから旧8月十五夜ごろは、本州ならば畑作の収穫祭、九州南部から琉球(りゅうきゅう)列島にかけては稲の収穫祭の時期で、その収穫を祝う歌舞が盛大に催され、綱引きなどの行事も行われる。旧10月前後は本州各地の稲の収穫祭で、各地とも地域をあげての芸能の饗宴(きょうえん)が繰り広げられる。山車(だし)、屋台の練り行列もあれば、神楽(かぐら)、舞楽(ぶがく)、歌舞伎(かぶき)、人形芝居等々から、夏季演じた太鼓踊などを願成就のお礼の踊りとして再演することがある。

 ついで旧11月、12月になると俄然(がぜん)神楽が盛んになる。旧11月の霜月は一年中でもっとも太陽の衰える冬至の季節で、それを人や宇宙の生命力の衰弱のときとみて、その生命力の復活を図るために神を迎え、神の霊魂の分与を求める鎮魂祭を行った。そしてまたこのとき、新穀を神に献ずる新嘗祭(にいなめのまつり)を催し、神の召し上がる米を人もまた頂いて、そのことでも神の御魂の付与を得た。この鎮魂や新嘗の儀礼として演じられたのが神楽である。古くは、神招(お)ぎをした巫女(みこ)が自身神がかりして、わが身に憑(つ)いた神霊を人々に分与する歌舞を演じたものが、しだいに、仮面・仮装の神に扮(ふん)した男が神威を示す舞や足踏みを行って鎮魂の所作とするというふうに変わった。また、釜(かま)に湯を沸かし、その湯を神に献じ、神の息吹のかかった湯を祭場の人々に浴びせることで魂の再生を図るという、湯立(ゆだて)の行事を歌舞で演じる湯立神楽も各地で盛んに行われた。こうして衰えた魂を新しく強力なものに再生させて、人々は新しい年を迎えるわけであるが、その年の改まりの季節には、新しいトシ(稲の実りの意)を携えた神々が来訪するとの信仰から、なまはげ、カユツリ、トシドンなど、仮面・覆面などさまざまの仮装の神々が家々を訪問して祝言を述べたりする習俗が各地に普及し、その習俗を基盤に、万歳(まんざい)、春駒(はるこま)、大黒舞(だいこくまい)、獅子舞(ししまい)など、新春のことほぎを各戸に捧(ささ)げる祝福芸が職業者によって行われた。

 こうして、日本各地は、1年を通じて各種の芸能で埋め尽くされるわけだが、これら民俗芸能が各地住民の生活のなかに根を下ろして久しい伝承をみるようになった理由には、祭りに行う芸能を村落のだいじな成人教育と考えて、青少年に年齢に応じた役を与え、何日もにわたる技芸の稽古(けいこ)を通じて、成人たるにふさわしい身心の鍛練を行う風習が各地にあったことなどもあげられる。また、年中汗水流して働かねば満足のいく生活が与えられない日本の民衆にとって、祭りが唯一地域をあげて歌舞に明け暮れることの許される機会で、それゆえに生命力に富んだ芸能が祭りを基盤に生まれたともいえるのである。なお、村落の祭祀(さいし)のほかに家や講単位に縁者、信者が集まって小さな祭事の形をとりながら歌舞を演じる風があり、これも民衆社会における歌や踊りの育成・伝承の場となった。

[三隅治雄]

種類と分類

日本全国に分布する民俗芸能は今日もおびただしい数に上る。獅子舞一つをとらえても、1町村に五つ、六つという土地もざらにある。明治年間以来、年々減少しているといわれるのに、なおこの状況だから、いかに日本人が数多くの芸能を郷土にはぐくんだかが改めて痛感される。したがってその種類も多彩を極めるが、これを全国的に通観して、芸能の形態や信仰内容、あるいは芸脈から種類の分類を行ったのは、本田安次(やすじ)(1906―2001)である。彼の『図録日本の民俗芸能』(1960)によれば、まず、民俗芸能を、大きく(1)神楽(かぐら)、(2)田楽(でんがく)、(3)風流(ふりゅう)、(4)祝福芸、(5)外来脈、の5種に分け、さらにこの五つを次のように分類している。

(1)の神楽に属するものとして、〔1〕巫女(みこ)神楽、〔2〕出雲(いずも)流神楽、〔3〕伊勢(いせ)流神楽、〔4〕獅子神楽
(2)の田楽に属するものとして、〔1〕予祝の田遊、〔2〕御田植神事
(3)の風流に属するものとして、〔1〕念仏踊、〔2〕盆踊、〔3〕太鼓踊、〔4〕羯鼓(かっこ)獅子舞、〔5〕小歌踊、〔6〕綾(あや)踊、〔7〕つくり物風流、〔8〕仮装風流、〔9〕練り風流
(4)の祝福芸に属するものとして、〔1〕来訪神、〔2〕千秋(せんず)万歳、〔3〕語物
(5)の外来脈に属するものとして、〔1〕伎楽(ぎがく)、〔2〕獅子舞、〔3〕舞楽(ぶがく)、〔4〕延年(えんねん)、〔5〕二十五菩薩来迎会(ぼさつらいごうえ)、〔6〕鬼舞・仏舞、〔7〕散楽(さんがく)、〔8〕能・狂言、〔9〕人形芝居、〔10〕歌舞伎
 この分類法は、長い年月全国を踏査してなしえた本田安次ならではの、民俗芸能各種の特質とその歴史をよく押さえた分類法で、とくに日本の民俗芸能が、本来(イ)人の長命を願う、(ロ)穀物の豊作を願う、(ハ)人の命を脅かす悪霊を追う、の3点を大きな目的をもっていたと指摘して、(イ)を基盤にしての神楽、(ロ)を基盤にしての田楽、(ハ)を基盤にしての風流を、民俗芸能分類の柱にしたことは卓見で、その後に出た分類案のよりどころとなっている。

 また、折口信夫(おりくちしのぶ)の学統を継ぐ池田弥三郎(やさぶろう)(1914―1982)は、『日本人の芸能』(1957)などにおいて、芸能を成立させる民俗的制約に、(1)季節、(2)舞台、(3)俳優、(4)観客、(5)台本、があるとして、それぞれの項を軸にしての分類を試みることを提唱している。たとえば(1)の季節を軸に一つの分類を試みれば、〔1〕新春の芸能、〔2〕春の芸能、〔3〕夏の芸能、〔4〕盆の芸能、〔5〕秋の芸能、〔6〕冬の芸能、といった形である。この季節的分類は、おおよそ本田案の形態分類と重なり合うところが多く、民俗芸能がいかに季節の祭事とかかわって芸能としての形を整えてきたかが了解できる。ここでは、民俗芸能の民俗的性格に着目しつつ、なお芸能個々の歴史的展開をも顧慮しての、形態別分類を示しておく。

[三隅治雄]

神楽芸

祭場において、巫者(ふしゃ)が神座(かむくら)となり、榊(さかき)や笹(ささ)などを手にして舞い、自身神がかりして託宣を行い、かつは神座に憑(つ)く神霊を人々に分与する魂(たま)ふりのわざが起源で、のち、神招ぎの舞のあと仮装の神が出現して鎮魂の歌舞を演じる風を生んだ。カグラは神座を意味するカムクラの音略とみられる。歴史的には、太陽の衰える霜月ごろ、神を迎えて魂の再生を図る鎮魂呪術として演じたのが古く、古代宮廷における鎮魂祭の儀礼などがその一つであった。のち、宮廷では内侍所御神楽(ないしどころのみかぐら)などを生み、また民間では陰陽道(おんみょうどう)、修験道(しゅげんどう)、伊勢神道(いせしんとう)などの影響を取り込みつつ各地にさまざまの神楽を生んだが、その古風なものの多くは冬季に行われる。

〔1〕採物(とりもの)神楽 榊などの採物を振りつつ舞った神招ぎの舞を祖型とするもの。現行では、榊、笹、鈴、檜扇(ひおうぎ)などを手にして舞う巫女(みこ)舞が各地に普及する。また、男性神職が幣(ぬさ)などを手にして舞い、託宣を行う古い神楽も中国・四国地方に散在するが、前半に神招ぎや清めの採物舞を演じ、後半に仮面・仮装の神が出現して記紀の神話に取材した舞劇を演じる形も、近世初頭に出雲(いずも)の佐太(さだ)神社を中心におこり、その後全国に普及した。関東の太太(だいだい)神楽などもそれで、それがさらに洗練化して江戸の里神楽などを生んだ。九州の宮崎・鹿児島地方の神楽や神舞(かんめ)も古風を伝える。

〔2〕湯立(ゆだて)神楽 湯立の祭事を中心とした採物神楽。神前に据えた釜に湯を沸き立たせ、採物を手にした舞人がその湯を神に献じ、また神の息吹のかかった湯を人々に分かつ。仮面の神が出て群衆に湯を浴びせたり、鎮魂の舞をまう。伊勢外宮(げくう)の湯立儀礼などが近世の湯立神楽の基盤となる。南信州の遠山(とおやま)地方の霜月神楽や天龍(てんりゅう)村の冬祭・お潔(きよ)め祭、奥三河の花祭などがとくに名高く、東北地方にも羽後の保呂羽山(ほろわさん)霜月神楽などがある。

〔3〕獅子神楽 獅子頭(がしら)を御神体として舞わす神楽。東北地方に分布する、かつて山伏が演じた山伏神楽、番楽(ばんがく)、能舞(のうまい)などでは、これを権現舞(ごんげんまい)と称し、正月とか家の祝事などに各戸を巡って、家内繁盛、五穀豊穣、災厄鎮送を祈祷(きとう)する舞を演じる。そしてそれに付属して、神舞、荒舞、武士舞、女舞などの劇的な舞曲を演じる。一方、伊勢、尾張(おわり)地方では、江戸時代に伊勢神宮、熱田(あつた)神宮の神威を背負う獅子頭を奉じて各地を巡回する御師(おし)の団体が輩出し、諸国の町や村で獅子を舞わせ、その余興に曲芸や寸劇を演じ、さらに獅子頭の女形(おんながた)が芝居の一場面を演じたりする獅子芝居の類(たぐい)も生まれた。御師の芸はいまも太神楽(だいかぐら)の名で伊勢の桑名に残るが、江戸へ出て寄席芸化したものに太神楽があり、現在では曲芸を売り物にしている。ほかにも、農村住民による祭事芸能として各地に普及している。

[三隅治雄]

田楽芸

稲作儀礼にかかわって行われてきた芸能で、新春の豊作予祝の祭りに演じるものと、田植時を中心に演じるものがある。

〔1〕田遊・田植踊 年の初めに、稲の耕作の順調に進む過程と豊作成就のさまをしぐさや踊りで模擬するもので、物真似の要素の強いものを田遊、春田打、御田などと称し、舞踊中心のものを田植踊、えんぶりなどという。前者は全国に分布するが、後者は東北地方にもっぱら集中する。前者では、寺院の修正会(しゅしょうえ)と融合して、田遊に加えて田楽(でんがく)や鬼の舞などをあわせて演じるところもある。

〔2〕田植の芸能 田植に神を迎え、華麗な装いをした早乙女(さおとめ)が苗を植え、歌舞を奏する風習は各地にある。中国山地付近の農村に伝わる囃田(はやしだ)、花田植は、田の神役のサンバイと早乙女が歌を掛け合い、男たちが後ろで太鼓や笛、簓をはやし立てるが、こうした風景は平安時代中期の『栄花物語』にも描かれている。平安末期から都を中心に流行した田楽は、この田植の囃子(はやし)が基になったと思われ、寺社に所属する法体芸人が田楽法師と名のり、囃子の踊りに曲芸、能などを加えて芸術化した田楽をつくりあげた。田楽は南北朝時代以後猿楽(さるがく)に押されて地方へ分散し、現在では正月の修正会に関連して田遊とともに行われるところが多い。

[三隅治雄]

風流芸

風流は古くみやびと読み、洗練された都風な美を意味したが、平安時代中期には、そのみやびを造形化した邸第、庭園、装束、道具などの美をたたえる語となり、フリュウとよんだ。そして当時おこった祇園御霊会などに華麗な意匠の山・鉾を出し、また豪奢(ごうしゃ)な衣装の練り衆が囃子を奏し、踊りをおどったりしたことから、風流は祭りや芸能の称ともなり、これを契機にさまざまの芸能種目が派生していった。

〔1〕念仏芸 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の名号を唱えつつおどる念仏踊。自身の煩悩解脱(ぼんのうげだつ)と亡魂鎮送の目的でおどった。この念仏踊から全国各地に盆踊りが生まれた。念仏信仰の教化に演じた菩薩来迎会(ぼさつらいごうえ)や大念仏狂言なども一類である。

〔2〕太鼓踊 大ぜいが災厄退散や雨乞(ご)いなどに太鼓を打ち鳴らしながら踊り回るもの。

〔3〕獅子踊(風流獅子舞) シシとはいえ、鹿(しか)や竜などの頭(かしら)を頂いた踊り子が、太鼓や羯鼓(かっこ)を打ちつつおどる太鼓踊の一種で、東日本にもっぱら分布する。

〔4〕小歌踊 小歌は古いはやり歌の名で、これにのって華美な扮装でリズミカルにおどる群舞。越後(えちご)の綾子(あやこ)舞や奥多摩の鹿島(かしま)踊など初期のかぶき踊をしのばせるものがある。

〔5〕採物踊 棒、太刀(たち)、薙刀(なぎなた)、槍(やり)、綾竹(あやたけ)、傘、笠(かさ)、櫂(かい)、造花などさまざまの採物を、掲げ、打ち合わせなどしながらおどるもの。

〔6〕練り物 山、鉾、山車(だし)、屋台などの引き回しや仮装行列などの類で、都市の祭りに多い。

[三隅治雄]

郷土舞台芸

一度、都や大坂、江戸などで舞台芸術化したものが、その本流となるべきものは中央で栄えながら、その芸脈が地方へ伝播(でんぱ)して、それぞれの地域の郷土芸として土着したものも数多く、各地の祭りなどで演じられている。

〔1〕郷土舞楽 古代、大陸から畿内(きない)の大寺や宮廷に伝来した舞楽が地方の社寺に伝播し、各地で独特の形態で保存されている。大阪の四天王寺系の伝播が目だっている。

〔2〕郷土能 南北朝時代以来、世阿弥(ぜあみ)などによって大成をみた猿楽能が各地へ伝播し、美濃(みの)の能郷の能・狂言や、出羽(でわ)の黒川能などの郷土色豊かな能を生んだ。

〔3〕郷土狂言 猿楽能と歩調をそろえて都で芸術化をみた狂言も、地方へ伝播し、中央では消えた鷺(さぎ)流狂言も佐渡や山口に土着した。

〔4〕郷土歌舞伎 近世、江戸、上方(かみがた)の花として創造された歌舞伎は地方でもてはやされ、旅へ出た俳優が土着したりして、住民による歌舞伎が各地に生まれた。いまも、会津の檜枝岐(ひのえまた)歌舞伎、信州の大鹿(おおしか)歌舞伎、播磨(はりま)の播州(ばんしゅう)歌舞伎など、独特の郷土色をもつ地芝居が各地に伝承している。

〔5〕郷土文楽(ぶんらく) 近世、大坂の舞台で大成した、義太夫(ぎだゆう)節による3人遣いの人形芝居は淡路文楽軒が興行に携わって以来文楽とよばれて今日に伝承されているが、これが地方へも広く伝播して、関東から九州方面の各所に分布する。

[三隅治雄]

言い立て芸

祝言、物語、口上などを言い立てる芸能で、器楽や舞踊を伴うものを主とする。

〔1〕門訪(かどおとな)い芸 家々を訪問して、その門口で祝言を述べる門付(かどづけ)の芸能。万歳、春駒、大黒舞、祭文(さいもん)など。

〔2〕大道芸 大道や広場を舞台に演じる芸能。飴屋(あめや)踊、猿回しなど。

〔3〕語り舞 語りを中心とした舞で幸若(こうわか)舞など。

[三隅治雄]

人形芸

郷土文楽を除く人形を操る芸能。桑の木片を手にして物語を語る東北地方のおしらさまや、御神体の木偶(でく)を操る北九州の細男(せいのお)人形をはじめ、糸操りや一人遣いの人形芝居、あるいは祭り屋台で操るからくり人形や花火の仕掛けをした綱火(つなび)の人形など、多種多彩な人形が各地に伝承される。

[三隅治雄]

複合

神楽と田楽、あるいは田楽と舞楽など、いくつかの種目を複合した芸能も各地にある。陸中平泉の毛越寺(もうつうじ)などの寺院に伝わる延年(えんねん)とよばれる芸能などがそれで、南信州の新野(にいの)の雪祭や奥遠州の西浦(にしうれ)の田楽なども、古くオコナイとよばれる修正会形態の正月の祭りのなかで演じられた、神楽、田遊、田楽、能などさまざまな芸能の競演会であった。

[三隅治雄]

研究の経過と動向

民俗芸能の研究が活発化したのは、1927年(昭和2)に「民俗芸術の会」が創立され、その翌年に機関誌『民俗芸術』が創刊されて以来のことであった。従来とかく地方辺境の奇習の類(たぐい)と目されがちだった各地の伝統芸能を民族のたいせつな文化遺産とみ、かつ民族の歴史を物語る生きた史料と評価して、柳田国男(やなぎたくにお)、折口信夫、小寺融吉(ゆうきち)、永田衡吉(こうきち)、早川孝太郎などの研究者が相寄って各地の調査を行い、その後、西角井正慶(にしつのいまさよし)、本田安次、宮尾しげを、北野博美(ひろみ)などが輩出して急速に研究が発展した。また伝承者自身も芸能伝承に自覚をもつようになった。第二次世界大戦後、芸能の衰微が憂慮されたが、研究活動の活発化が即芸能伝承を支える力ともなり、1954年度(昭和29)から行われた国の文化財保護政策のなかにも民俗芸能の保存がうたわれ、歴史的意義をもち、かつ流派的、地域的特色をもつ芸能を国の重要無形民俗文化財として指定し保存対策を講ずる措置が現在とられつつある。研究活動も、1984年に全国の研究者を網羅しての「民俗芸能学会」が創立され、今後の発展が期待されている。なお、各都道府県にもそれぞれ無形民俗文化財の指定制度があり、各地方自治体もその保存・伝承に力を入れている。沖縄県に伝承されてきた民俗芸能は、本土とは異なった要素も多く、南方の豊かな芸能を今日に伝えている。

[三隅治雄]

『郡司正勝著『郷土芸能』(1958・創元社)』『本田安次著『図録日本の民俗芸能』(1960・朝日新聞社)』『本田安次著『日本の民俗芸能』全5巻(1966~1973・木耳社)』『三隅治雄著『日本民俗芸能概論』(1972・東京堂出版)』『西角井正大著『民俗芸能入門』(1979・文研出版)』『日本ナショナル・トラスト編『日本民俗芸能事典』(1976・第一法規出版)』『仲井幸二郎・西角井正大・三隅治雄著『民俗芸能辞典』(1981・東京堂出版)』


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改訂新版 世界大百科事典 「民俗芸能」の意味・わかりやすい解説

民俗芸能 (みんぞくげいのう)

民族それぞれの社会生活の中で,住民みずからが演者となって伝承してきたきわめて地域性の濃い演劇,舞踊,音楽の類をいう。いずれも,地域の生活・風土と結びついて伝承されるものだけに郷土色が濃く,そのため日本では郷土芸能,郷土芸術などと呼ばれる。この種の芸能は世界のどの民族にも存在するが,欧米のような,墨守よりも創造に情熱をかける国々では,いわゆるフォークダンスのようなものも自由に編作・創作の手が加えられて,昔ながらの伝統を残すものが少なくなっている。これに対して未開地域や発展途上国では,人々が旧習になずみ,また娯楽機関に恵まれないこともあって,土着の芸能が豊富に残されている。

日本では有史以来,大陸の高度な文化を吸収しつつ,一方では土着の芸能の芸術化を積極的にすすめながら,一方では土地ではぐくんだ芸能を地域の慣行として保存・継承する態度を保持したから,昔のおもかげを残す民俗的な芸能と,その芸能をより芸術的に発展させたものとが並立共存する状況が生まれた。そのため,欧米のように古態を調査するために,いちいちアフリカなどへ出かける要もなく,自国の舞台芸術の発生と成立を,自国の民俗芸能の調査を通して考察できるという便宜を得た。それは,民俗芸能のもつ歴史的意義というべきか。その点に目をつけた研究者たちが1927年〈民俗芸術の会〉を創立して雑誌《民俗芸術》を刊行し,これを契機に民俗芸能を対象とする研究が活発になり,世間のこの種の芸能に対する関心も深まった。さらに52年に〈民俗芸術の会〉の延長とみられる〈民俗芸能の会〉が誕生し,以来民俗芸能の称が郷土芸能などに代わって一般化するようになった。文部省でも,50年以来毎年芸術祭執行委員会主催で行っていた全国郷土芸能大会を,59年から全国民俗芸能大会と改称するようになった。また1954年からは各地伝承の民俗芸能のうち,歴史的な意義をもち,かつ流派的・地域的特色をもつものを国の重要民俗文化財として指定保護する制度が生まれ,近代以降,衰退の傾向にあった民俗芸能も,その伝承が保障されるようになった。

民俗芸能の何よりの特色は,地域の生活とつねに密着して生きてきたことである。民俗と称するのも,それが地域における社会慣習と認識されたためであり,事実,それらの芸能の多くは,土地や人の繁栄,息災を祈願する儀礼として,季節のおりおりに催す地域の祭りに毎年演じるのをならわしとした。すなわち,農耕生活を主体に社会を形成している日本では,年の初めにまず当年の穀物の豊穣を祈願予祝する祭儀を営むが,農村ではこのとき田遊(たあそび),春田打(はるたうち),御田(おんだ),田植踊などと称する芸能を演じる。田の土ならしから稲の収穫にいたる稲作の模様を,歌としぐさ,踊りなどで表現し,このとおりの無事収穫をお願いすると祈るのである。また夏の田植どきになると,女たちが田に降り,田の神を迎えて美しい田植歌を神に聞かせながら稲よ実れと祈る。またこの季節には,天災や疫病の鎮圧を祈って,太鼓や鉦(かね)を打ち鳴らして道中をしたり,激しく踊ったりする。盆には先祖供養と豊作を祈願して月光の下でおおぜいで歌い踊り,秋には無事収穫を祝い,かつ神に収穫の感謝を捧げての歌舞を盛大に演じる。太陽の衰える冬季を迎えると,衰弱した生命の復活再生を祈る鎮魂の神楽(かぐら)を演じる。これらのことを例年繰り返すことで,人の生命も田畑の実りも社会の繁栄も約束されると信じたのである。

 こうした信仰的機能が民俗芸能伝承の第1とするなら,第2は各地域社会の成人教育に果たした教育的機能である。すなわち,昔の村落では,子供組,若者組と年齢に応じたグループを組織して身心の鍛練に努めたが,そのとき教科に当てられたのが獅子舞,神楽,太鼓踊などの芸能で,祭りを迎えるまでの一定期間,宿に籠って先輩から厳しい稽古(けいこ)を受ける。その訓練を通じて一人前の人間としての精神と肉体をつくり上げるのであるが,その期間の先輩・後輩の交流を通じて,後輩は村と芸能の歴史を知り,また村落の構成員としての連帯感を強くもつ。

 第3には,年間労働に明け暮れる民衆にとって,この祭りの場を中心とした芸能は何よりの芸術創造意欲の発散の場となり,また,それを見る者にとってはこれが大きな娯楽になったのである。いわば創造機能と娯楽機能といえるが,人々は表には信仰心に基づく昔ながらの技芸の反覆を心がけながら,しかしより巧みに演じ,より美しいものに表現したい意欲で芸能に取り組む。だから根幹は昔を変えずとも,感覚的には去年よりは今年の新味を出していくのである。芸能伝承の生気はそのわずかな表現の新しみから生まれるのだが,人々は,昔を変えぬ芸能のほかに,年々にほかから新しい歌舞を学んでこれをその土地なりのものに創り上げていくことも行い,祭りは,地域社会における芸術創造の場になったのである。祭り以外の日常生活では,歌が日々の労働のよき伴侶となった。農耕,漁労,工作等々,いずれもおおぜいの共同作業で行われた昔は,歌が全体を統一し,志気を高め,仕事を促進させた(労作歌)。これは,いわば生産向上の機能で,かつての民族の生活においては,芸能の伝承を通じて人々は日々の生活を心安らかなものとし,かつ技芸の研修を通じて身心の鍛練,知識の充足を果たし,さらに創造意欲を満たしつつ明日に生きる活力を養ったのである。

日本の民俗芸能の種類は多彩である。長年全国を踏査して多くの研究成果をあげた本田安次(1906-2001)は,これを整理して次のような種目分類を行った。

 (1)神楽 (a)巫女(みこ)神楽,(b)出雲流神楽,(c)伊勢流神楽,(d)獅子神楽(山伏神楽番楽(ばんがく),太神楽(だいかぐら)),(2)田楽 (a)予祝の田遊(田植踊),(b)御田植神事(田舞・田楽躍),(3)風流(ふりゆう) (a)念仏踊(踊念仏),(b)盆踊,(c)太鼓踊,(d)羯鼓(かつこ)獅子舞,(e)小歌踊,(f)綾踊,(g)つくりもの風流,(h)仮装風流,(i)練り風流,(4)祝福芸 (a)来訪神,(b)千秋万歳(せんずまんざい),(c)語り物(幸若舞(こうわかまい)・題目立(だいもくたて)),(5)外来脈 (a)伎楽・獅子舞,(b)舞楽,(c)延年,(d)二十五菩薩来迎会,(e)鬼舞・仏舞,(f)散楽(さんがく)(猿楽),(g)能・狂言,(h)人形芝居,(i)歌舞伎(《図録日本の芸能》所収)。

 以上,日本の民俗芸能を網羅・通観しての適切な分類だが,ここではこれを基本に踏まえながら,多少の整理を加えつつ歴史的な解説を行ってみる。なお,万歳や太神楽などのように,特定の舞台をもたず,地域の冠婚葬祭にかかわって人家を訪問して演じる芸能も民俗芸能に含める。

(1)神楽芸 カグラは神座(かむくら)の音略で,古代祭祀においては,巫者が神座となる榊などの採物(とりもの)を打ち振りながら神霊を迎えて歌舞したことに始まったものとみられる。記紀の天岩戸神話に示された天鈿女(あめのうずめ)命の俳優(わざおぎ)などがそれにあたり,太陽の衰える冬季,巫者が招き迎えた神霊を天皇の御体にいわい込めて,魂の再生をはかる鎮魂祭にこれが行われ,宮廷ではこれが基で御神楽(みかぐら)が生まれた。民間でもこの鎮魂の神楽は陰陽道,修験道,伊勢神道などの信仰や作法を吸収しながら多彩な展開を示す。各地に多い巫女舞は榊や笹,幣,扇などを採物にしての神招ぎと,神がかりの舞が原型だが,いまはすべて様式化して優美な採物舞になった。中世以降,男巫(おとこみこ)による荒々しい神招ぎと託宣のわざが中国地方や四国地方に残存するが,近世は,出雲の佐太神社などを中心に,記紀神話を能風に演出してみせる仮面舞劇が広く行われるようになり,神招ぎの採物舞はその導き役程度に後退した(佐陀神能)。神楽にはまた湯立(ゆたて)を中心とした湯立神楽がある。祭場の中央で煮立てた湯を神に献じ,神の息吹きのかかったその湯をまわりの人々に浴びせることで魂の再生をはかろうとする。これも鎮魂の意義をもつ神楽で,巫者が採物で神を迎え,のちに仮面の神役が出て鎮魂の所作を行う形が愛知県の花祭や,長野県の遠山祭,冬祭などにみられる(霜月神楽)。また獅子頭(ししがしら)を御神体と仰ぎ,それを捧げて人家を訪ね,悪魔払いの祈禱舞を演じる風が,東北の山伏神楽や番楽,関東・関西の太神楽などにある。前者は昔山伏が演じたもので,獅子舞に添えて物語を仕組んだ舞曲を演じ,後者は伊勢神宮や熱田神宮の御師(おし)が演じたもので,余興に曲芸や寸劇を披露する。この太神楽系の獅子舞は全国に普及した。

(2)田楽芸 稲作儀礼の芸能化したもので,初春に行うものと,田植どきに演じるものとがあった。関東から関西に分布する田遊,御田などは,稲作の過程を歌としぐさと問答で模すものである。東北に分布する田植踊は歌と群舞で表現するもので,前者は中世ごろから寺院の初春行事であるオコナイと習合しながら普及し,後者は農家の小正月行事として近世に広く行われた。田植どきの芸能で著名なのは中国山地付近に残る囃子田(はやしだ)で,おおぜいの早乙女が田の神役のサンバイと,恋歌を掛け合いながら苗を植える。畦には太鼓,笛,ささら(簓)などの囃子方がいて伴奏役を勤めるが,この風俗は古く平安中期の《栄華物語》などにも見えて,当時すでに鑑賞芸能として貴族たちにもてはやされていたようである。この囃子が独立して田楽と呼ばれるものになり,これに踊りをつけた田楽躍と曲芸や能などをレパートリーとして,寺院奉仕の芸能者が法会や祭事の余興に演じて評判をとるにいたった。鎌倉幕府の執権北条高時が田楽に熱中したのは有名な話だが,南北朝時代,猿楽能の人気に押されて衰退し,現在は地方寺社の祭礼などに演じられるのみになった。その余風は,いまも和歌山県の那智大社や岩手県平泉の毛越寺(もうつじ)などにうかがうことができる。

(3)風流芸 風流はもと雅(みや)びやかの意であったが,平安時代には趣向を凝らした庭園や調度,衣装,山車(だし)などの造形美を賞する語となり,そうした造形美を誇示した祭りや芸能を風流の名で呼ぶようになった。その代表は京都八坂神社の祇園御霊会(ぎおんごりようえ)で,夏季に発生する疫病や水害,干ばつなどの災害は,怨み(うらみ)をのんで横死した人々の亡魂のたたりだと考え,それを御霊とあがめて華麗な山車と鉦や太鼓などの強烈な囃子の行列で慰撫鎮送しようとした(御霊会)。晩春には,桜花の散るのを疫神飛散の兆しとみて,華美な扮装の子女が鼓笛を奏して紫野(京都市)の今宮神社へ道中したのも同じ民俗で(今宮祭),平安朝以後,疫神,亡魂鎮送のために風流を飾り立てた一行が囃子を奏し,はなやかな踊りを見せたりする風俗が各地で見られるようになった。念仏踊も,もとは解脱(げだつ)を求める人々が国中に念仏を唱えつつ共に跳躍する形のものだったが,亡魂を慰撫するには念仏が何よりとの考えから,災害除けにこれを踊り,また盆供養にも念仏踊を手向けるようになった。これが盆踊の誕生であるが,のちには念仏に代えて,当世流行の小歌をうたって踊る形も生まれた。念仏にゆかりのものでは,聖衆来迎の信仰を野外劇化した菩薩来迎会や,念仏信仰を黙劇でえがいた京都の壬生(みぶ)大念仏狂言(壬生狂言)などがある。西日本に広く分布する太鼓踊は田楽と念仏踊を習合した勇壮な集団舞踊で,雨乞い,虫送りなどに踊られるが,東日本では鹿頭(ししがしら),竜頭(たつがしら)をいただいた踊り手が3人とか8人など,組をつくってこれを踊る(鹿踊(ししおどり))。いわゆる風流獅子舞である。これらの群舞は室町時代から江戸時代にかけて流行するが,同時期,美しい装いを凝らした男女が小歌につれて踊躍(ようやく)し,また綾竹などを誇示して踊る小歌踊,採物踊の類が流行し,そこから,かぶき踊,槍踊など近世初頭を飾る舞踊が生まれ,これが地方村落にも波及した。

(4)郷土舞台芸 能,狂言,歌舞伎などは,発生的には村落の民俗芸能に根ざしたものであるが,やがて舞台芸術として完成してのち,ふたたび地方村落に迎えられて,その土地なりの芸能になることもあった。山形県の黒川能,岐阜県本巣市の旧根尾村能郷に伝承される能郷能,三重県伊勢市の馬瀬(まぜ)狂言,長野県下伊那郡の大鹿(おおしか)歌舞伎など各地に点在する。また大陸伝来の舞楽は宮廷や奈良,大坂四天王寺などで完成をみる一方,地方の寺社へ伝播(でんぱ)して法会,祭礼に演じられるようになった。秋田県鹿角市の大日堂舞楽のほか,山形,新潟,富山,静岡各県に多く伝承されている。

(5)人形芸 桑の木の御神体を手にして語る東北の〈おしら遊び〉は日本の人形芸の原始を示す例だが,大分県の古要(こよう)神社などに伝わる神人形は朝鮮半島の人形とも似て,大陸伝来の人形芸の古風をしのばせる。海辺の村々を漂泊したという平安時代の傀儡(くぐつ)のおもかげは,いまも徳島県の夷(えびす)まわしにも見られ,江戸時代に発達した一人遣いの人形芝居や,大坂で完成した三人遣いの文楽系の人形芝居も各地に分布している。また,からくり人形(からくり)などの人形戯も各地で考案されている。

(6)言い立て芸 言霊(ことだま)の威力で幸運を招き,魔や災害を押さえるとの信仰から祝言・口上(こうじよう)を言い立てたり,長々の物語を披露する慣習が昔からあり,職業芸能化することもあった。正月,各戸を訪問して祝言を述べる万歳,春駒大黒舞などがその一。大道で口上を並べて物を売ったりする飴屋踊などがその二。幸若などの語り舞がその三である。

(7)その他 ほかに,舞楽や田楽などをバラエティ式に並べて法会の余興に演じた,中世以来の寺院芸能,延年などがある。
神楽 →歌舞伎 →狂言 →人形浄瑠璃 →
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諸民族の民間で行われてきた芸能の全体を通じて際だつ特色としては,第1に総合芸術的性格をあげることができる。日本語の〈芸能〉ばかりでなく,古代社会ではギリシアの〈ムシケmousikē〉やインドの〈ナーティヤnāṭya〉,そして現代では英語の〈パフォーミング・アーツperforming arts〉やインドネシア語の〈カラウィタンkarawitan〉などは,すべて舞踊,音楽,演劇,文芸などの要素を有機的に内包する文化事象を意味している。しかし,これらが未分化であるとレッテルをはり,音楽や文芸が分化・独立して自律化したかのように思われがちなヨーロッパ近代の芸術観に照らし合わせて,発展の前段階にあるとするのは妥当ではない。民俗芸能の本質の一つは,民衆の生活と密着した形で表現される総合性であるといえよう。たとえば,ハワイのメレmele,南インドのヤクシャガーナyakshagānaを例にとれば,それぞれの土地の言葉(ハワイ語,カンナダ語)を文芸的に操作した様式で変形し,それを音楽的には〈語り〉〈朗唱〉〈歌唱〉などの声楽技法に加えて,楽器の音を重ね合わせ,特定の衣装やメーキャップを施したうえで動作パターンを演じ分けるという舞踊と演劇の要素が加わってくるのである。

 民俗芸能は第2に,身体性を特徴としてもっている。すなわち,視覚,聴覚,触覚,嗅覚ばかりか,味覚までを含んだ感性の世界として共同体の中で提示され,演者の肉体運動が中心に据えられるのである。色,形,音,香,飲食物が織り成す民俗芸能の端的な例は,中部ジャワの成人式,結婚式などの機会に催されるスラマタンselamatanという宴,そこでとりおこなわれるガムラン(音楽),ワヤン(影絵芝居),そしてベンガル地方の神秘的・宗教的な歌舞バウルなどのパフォーマンスである。また,ユーラシアとアフリカに広く分布する旅芸人による曲芸,門付芸,演舞,さらに武芸の中に身体運動の民俗的様式化を見ることができる。

 第3の民俗芸能の特色は,民俗的な歴史知識を含みもつ叙事性である。多くの民俗芸能は,史実を脚色した題材をもち,過去に対するその時その時の現代的解釈として人々に支えられてきた。北部タイやラオスでのケーン(笙(しよう))を伴奏とするモーラムmōlam,ネパールでのサーランギーを伴奏とするガイネgaineには,そうした過去とならんで新しい話題(時事問題)なども織り込まれる。また,事実ないしその脚色ではなく虚構の世界を描く物語性をもった民俗芸能も多く,それらはしばしば勧善懲悪,二元論などの倫理観,世界観を表明するものと解釈することができる。たとえば,インドの《ラーマーヤナ》《マハーバーラタ》と,それが伝播し変形された東南アジア諸民族の舞踊劇,あるいはそれぞれの民族が固有にはぐくんできた神話・伝説の類に基づく語り物や舞踊劇の中に,人民の共同体意識を高める動機が文芸・舞踊の構造の一部として観察できるのである。このように叙事性をもつ民俗芸能は,諸民族の歴史・価値体系をパフォーマンスそのものを通じ,コード化ないし記号化したものと解釈することができる。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「民俗芸能」の意味・わかりやすい解説

民俗芸能
みんぞくげいのう

民俗行事のなかに伝承された民間の芸能。郷土芸能などともいう。農村,漁村,都市の祭りや寺社の行事という形で,人々の生活,習俗,信仰と深く結びついており,その歴史は古い。一般の人によって演じられることが多く,通常,興行形態はとらない。鎮魂 (たましずめ) ,招魂 (たまふり) の祈祷として始った神楽 (かぐら) ,豊年を願う予祝行事としての田遊び,お田植神事などの田楽 (でんがく) ,法会のあとに国土泰平を祈って行われた延年 (えんねん) ,疫病,怨霊の退散を祈る風流 (ふりゅう) ,盆行事として行われる盆踊などのほかに,万歳春駒 (はるこま) などの祝福芸もある。近代以降,社会構造や生業形態の変革とそれに伴う過疎などの影響で後継者難に悩む地域も多いが,近年は無形文化財としての価値が再認識されつつある。また民俗芸能の本質的な演劇性は,現代演劇に対しても示唆するところが多い。

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世界大百科事典(旧版)内の民俗芸能の言及

【芸能】より

…また,各地域社会では,これら職業芸能者の影響をこうむりながらなお地域ごとの芸能の成育に歴代心を尽くし,四季折々の祭りや家ごとの集会に日ごろ修練の芸を披露し,そのことで生活の安息,繁栄を祈った。民俗芸能とよばれるものがそれで,全国に数多く伝承される。【中村 茂子】【三隅 治雄】。…

【日本音楽】より

…つまり,洋楽系の日本人の音楽は,〈日本の音楽〉というが,〈日本音楽〉とはいわないという考え方である。 この〈日本音楽〉には,いわゆる邦楽のほかに,民謡,童歌(わらべうた),民俗芸能の音楽などの民俗音楽や唱歌(しようか),軍歌,童謡,歌謡曲なども含まれることがある。このうち,民俗音楽は広義の〈邦楽〉に入れることもあるが,唱歌,軍歌,歌謡曲などは〈邦楽〉には入れないのが普通であるだけではなく,後述のように洋楽に扱うこともある。…

※「民俗芸能」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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