毛利秀頼(読み)もうり・ひでより

朝日日本歴史人物事典 「毛利秀頼」の解説

毛利秀頼

没年文禄2.閏9.17(1593.11.9)
生年:生年不詳
安土桃山時代の武将。河内守。尾張森氏の出。斯波源氏の支流といわれる。織田信長に仕えて転戦し,重用される。天正10(1582)年の武田勝頼攻撃に際しては先鋒として信濃(長野県)の伊那を制圧し,飯田城(飯田市)の城将に任じられた。6月に信長が死ぬと,京都に帰り豊臣秀吉に属す。その後飯田城は徳川家康の勢力下に入り菅沼定利が守備に当たったが,同18年家康の関東移封に伴って去り,再び秀頼が飯田城主に任じられた。奥州に一揆が起こると徳川氏らと共に出陣し,文禄1(1592)年には豊臣秀吉から朝鮮出兵の命を受ける。肥前に駐屯して翌年帰還するが,間もなく病死した。<参考文献>『下伊那史』7巻

(笹本正治)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「毛利秀頼」の解説

毛利秀頼 もうり-ひでより

?-1593 織豊時代の武将。
尾張(おわり)守護斯波(しば)氏の一族という。織田信長の家臣。天正(てんしょう)10年(1582)武田氏がほろびたあと,信濃(しなの)(長野県)飯田城主となる。本能寺の変後は豊臣秀吉にしたがい,18年ふたたび飯田に入封。文禄(ぶんろく)2年閏(うるう)9月17日死去。遺領娘婿京極高知(きょうごく-たかとも)がついだ。別名に長秀。

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