毛利秀就(読み)もうり・ひでなり

朝日日本歴史人物事典 「毛利秀就」の解説

毛利秀就

没年:慶安4.1.5(1651.2.24)
生年文禄4.10.18(1595.11.19)
江戸前期の大名。萩(長州)藩初代藩主毛利輝元長男。幼名は松寿丸,藤七郎。慶長4(1599)年輝元の養子毛利秀元は別家を立て,秀就が惣領(輝元の後継)の地位を確定した。従四位下,侍従,長門守,のち右近衛権少将。5年関ケ原の戦による減封後,輝元は形式上隠居したため,周防,長門2カ国の名目上の藩主。翌6年証人(人質)として在江戸。16年初入国。このころから藩制上の実権が,輝元から秀就に徐々に移譲され,元和9(1623)年の内証家督で完了。輝元,秀元,吉川広正(岩国藩主),それに福原広俊,益田元祥ら重臣に支えられて,藩制の成立に努めた。

(田中誠二)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「毛利秀就」の解説

毛利秀就 もうり-ひでなり

1595-1651 江戸時代前期の大名。
文禄(ぶんろく)4年10月18日生まれ。毛利輝元の長男。慶長5年(1600)父の隠居により家督をつぎ,長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩主毛利家初代。37万石。翌6年から人質として江戸に滞在,16年領国入りをゆるされた。大坂の陣には徳川方として参戦。慶安4年1月5日死去。57歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

防府市歴史用語集 「毛利秀就」の解説

毛利秀就

 萩藩の初代藩主です。関が原の戦いの後に毛利輝元[もうりてるもと]が隠居[いんきょ]したため、若くして藩主になりました。火事で焼けた玉祖神社[たまのおやじんじゃ]を建て直しました。

出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報

367日誕生日大事典 「毛利秀就」の解説

毛利秀就 (もうりひでなり)

生年月日:1595年10月18日
江戸時代前期の大名
1651年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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