武藤章(読み)むとうあきら

日本大百科全書(ニッポニカ) 「武藤章」の意味・わかりやすい解説

武藤章
むとうあきら
(1892―1948)

昭和期の陸軍軍人。明治25年12月15日熊本県生まれ。陸軍士官学校25期、陸軍大学校32期卒業。陸軍大学校卒業後、ドイツ駐在を挟んで1929年(昭和4)まで教育総監部勤務。鈴木貞一(すずきていいち)らが組織した一夕会(いっせきかい)に参加。1935年より軍事課高級課員。二・二六事件後の「粛軍」過程で頭角を現し、寺内寿一(てらうちひさいち)の政務幕僚として広田弘毅(ひろたこうき)内閣の組閣に干渉した。1936年関東軍参謀転出、謀略部隊の組織などに奔走した。1937年3月参謀本部作戦課長。盧溝橋(ろこうきょう)事件の際には、強硬派の総帥として不拡大派の石原莞爾(いしわらかんじ)作戦部長を中央から追った。11月には中支方面軍参謀副長になり南京(ナンキン)攻略を指導した。1939年軍務局長、大戦中には近衛(このえ)師団長、第一四方面軍参謀長。昭和23年12月23日A級戦犯として刑死。

山田 朗]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「武藤章」の意味・わかりやすい解説

武藤章
むとうあきら

[生]1892.12.15. 熊本
[没]1948.12.23. 東京
陸軍軍人。陸軍士官学校,陸軍大学校卒業後,ドイツに駐在。帰国後関東軍参謀,北支方面軍参謀副長などを歴任,1939年軍務局長となり,中将昇進。太平洋戦争開戦決定に際しては,東条英機陸相とともに,その中心的役割を果した。第 14方面軍参謀長としてフィリピン終戦を迎え,戦後A級戦犯に問われ,死刑に処せられた。遺著に『比島から巣鴨へ』がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「武藤章」の解説

武藤章 むとう-あきら

1892-1948 大正-昭和時代前期の軍人。
明治25年12月15日生まれ。昭和12年参謀本部作戦課長となり,盧溝橋(ろこうきょう)事件で戦線拡大論をとなえる。14年軍務局長。東条英機(ひでき)のもとで統制派の主要メンバーとして活躍した。陸軍中将。敗戦時は第十四方面軍参謀長。A級戦犯とされ,昭和23年12月23日刑死。57歳。遺著に「比島から巣鴨へ」。熊本県出身。陸軍大学校卒。
【格言など】現世(うつしよ)のひとやのなかのやみにゐてかの世の光ほのかに見るかな(辞世)

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百科事典マイペディア 「武藤章」の意味・わかりやすい解説

武藤章【むとうあきら】

陸軍軍人。熊本県生れ。陸大卒。日中戦争では参謀,盧溝橋事件では拡大論を主張し,不拡大派の石原莞爾らを押切った。1939年軍務局長。太平洋戦争中スマトラ,フィリピンで指揮。戦後,A級戦犯として死刑。

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世界大百科事典(旧版)内の武藤章の言及

【新体制運動】より

…おりからナチス・ドイツの電撃戦が成功し,〈バスに乗りおくれるな〉と近衛をかついで強力な政治体制をつくり戦争の拡大に備えようとする動きが各方面で活発となった。近衛側近の有馬頼寧,風見章らは〈高度国防国家の完成,外交の刷新,政治新体制の建設〉をスローガンに国民組織を基盤とする新党を結成し軍部をとりこんでこれを統制することを目ざしたし,陸軍の武藤章軍務局長らは親軍的な一国一党をつくらせようと企図した。これに対して観念右翼や内務官僚は強力新党は幕府的存在になると,国体論をたてにこれに反撃した。…

【翼賛壮年団】より

…正式名称は大日本翼賛壮年団(翼壮)。大政翼賛会が治安警察法3条にいう公事結社(非政治的団体)と認定され,国民政治力の結集に失敗したため,ナチスの親衛隊にヒントをえた陸軍省軍務局長武藤章らが黒幕となり,大政翼賛運動の実践部隊として1942年1月16日に結成された。全国団の下に道府県団と郡市区町村団が組織され,21歳以上の青壮年有志による同志組織であることが強調された。…

※「武藤章」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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