武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)(読み)むしゃのこうじさねあつ

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)
むしゃのこうじさねあつ
(1885―1976)

小説家、劇作家詩人画家。明治18年5月12日、東京・麹町(こうじまち)に生まれる。父子爵実世(さねよ)、母秋子(なるこ)(勘解由小路(かでのこうじ)氏)の末男。4人の兄姉は生まれてまもなく死に、姉伊嘉子(いかこ)、兄公共(きんとも)とともに育つ。3歳のとき父を失う。その臨終の際の、この子はうまく育てば世界に1人という人間になるという父の予言を、成長後に知って、生を根底的に信じる心を与えられたという。学習院初・中・高等科に学び、木下利玄(きのしたりげん)、正親町公和(おおぎまちきんかず)、志賀直哉(しがなおや)を知る。中等科最上級のとき叔父の家で聖書トルストイの人生論書に接し、いかに生きるかを問う契機を与えられ、とくにトルストイの思想に傾倒文学への道を志した。1906年(明治39)東京帝国大学社会学科へ進んだが、1年ほどで退学。志賀らと「十四日会(じゅうよっかかい)」(1907)をもち、回覧雑誌『望野(ぼうや)』を発行、小説・詩・感想を載せ、それらをまとめて文集荒野(こうや)』(1908)を刊行した。そこにトルストイ主義の自己犠牲から自己の生命の肯定へ移る思想転回がみられたが、1910年4月『白樺(しらかば)』を創刊、個の拡充、主体的な生の創造を大胆に打ち出す感想・評論を執筆、また西欧の美術の紹介に努めた。1912年(大正1)竹尾房子と結婚、1922年別れて飯河安子(いいかわやすこ)と再婚。創作としては『お目出たき人』(1911)、『世間知らず』(1912)のほか、戯曲桃色の室(しつ)』(1911)、『二つの心』(1912)、『或日(あるひ)の一休和尚(いっきゅうおしょう)』(1913)などを発表。やがて個の拡充の意欲が自己を見守る運命の力を信じる心と結び付いて、自然・人類の意志のうちに個のすべてを生かす調和的な社会を具現すべき使命感を抱き、それを、戯曲『わしも知らない』(1914)、『或る青年の夢』(1916)、小説『彼が三十の時』(1914)、『或る脚本家』(1918)、感想集『後(の)ちに来る者に』(1916)などに熟させて、1918年(大正7)『新しき村の生活』に理想境建設の計画を公表し、宮崎県(のち埼玉県に移る)に土地を入手して「新しき村」の運動を具現した。1926年一身上の都合で離村、その間に『幸福者』(1919)、『友情』(1920)、『第三の隠者の運命』『或る男』(ともに1923)などの中長編、戯曲『人間万歳』(1922)、評伝『耶蘇(やそ)』(1920)を書き、「ぢかに神の意志を聞いて生きられる時」(耶蘇)を生きている自己の情熱を表明した。

 昭和初期には『井原西鶴(いはらさいかく)』(1931)ほかの伝記小説を多く書いたが、異色の美術展「大調和展」を創設、自身も画筆をとるなど、美術への関心を深め、1936年(昭和11)欧米を歴遊、各地に美術館を訪れ、帰国後は『美術論集』(1942)など美術関係の著書を多く刊行、小説にも画家を主人公とする作がみられた。第二次世界大戦中、時局に傾斜した姿勢を示したため、戦後公職追放の身となったが、1951年(昭和26)処分を解除され、文壇・画壇に復帰し、追放の間に書いた長編『真理先生』(1949~1950)を受ける『馬鹿一(ばかいち)』(1953)、『山谷五兵衛(さんやごへい)』(1954~1956)、『白雲先生(はくうんせんせい)』(1957~1959)の諸編に人間信頼の願いを託し、『或る男』以後の生涯を『一人の男』(1967~1971)に書き尽くして、昭和51年4月9日瞑目(めいもく)した。1951年文化勲章受章、1952年芸術院会員(再選)。東京・調布市の旧邸内に武者小路実篤記念館、埼玉県毛呂山(もろやま)町に武者小路実篤記念新しき村美術館がある。

[遠藤 祐]

『『武者小路実篤全集』全25巻(1954~1957・新潮社)』『『武者小路実篤全集』全18巻(1987~1991・小学館)』『本多秋五著『「白樺」派の文学』(新潮文庫)』『大津山国夫著『武者小路実篤論』(1974・東京大学出版会)』


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