武士道(武士の道義的精神)(読み)ぶしどう

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

武士道(武士の道義的精神)
ぶしどう

武士の道義的精神を意味するが、古くは「もののふの道」「ますらをの道」、ややくだっては「兵(つわもの)の道」「弓矢の道」「武者の習(ならい)」「弓矢とる身の習」「弓矢とる身の嗜(たしなみ)」、さらにくだっては「侍道(さむらいどう)」「武士の道」「武士道」「士道」などといい、明治以後はほぼ「武士道」に統一されている。バジル・ホール・チェンバレンは、明治の末から大正の初めごろ(20世紀初頭)「新宗教の発見」The Invention of a New Religionと題する論文を書き、武士道は明治以後――それも10年か20年前にようやく知られるようになったもので、それ以前にはinstitution(制度)あるいはcode of rule(道徳律)としてかつて存在したことはなかったと説いた。確かに武士道という語が一般的になったのは1897年(明治30)ごろで、新渡戸稲造(にとべいなぞう)の英文『武士道』がその一つの契機になったとみられる。ところが新渡戸の武士道は、副題に「日本の精神」とあるように、武士を中心とする日本精神一般を説いたもので、狭義における武士の道と同じではなかった。それで新渡戸の『武士道』に触発されて説かれた日本武人の道は明治の産物とみるほかはなく、明治武士道とよんで他と区別したほうが妥当であろう。

 しかし、武士道という語を使って日本武人の道を説いた文献は、新渡戸の『武士道』以前にもいくらもあった。戦国時代の末か徳川時代の初め(16世紀中葉~17世紀初め)に成立したと思われる『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』や、享保(きょうほう)期(1716~36)の著作である『葉隠(はがくれ)』や『武道初心集』などはその例である。それで、もっとも固有の意味での武士道はこれらの文献にみいだされ、古代の武人の道は「もののふの道」「ますらをの道」、鎌倉時代の武人の道は「弓矢とる身の習」「弓矢の道」、戦国時代の武人の道は「侍道」「武士の道」などにたどられるとみてよい。

 ところで戦国武人の道は、徳川時代の儒者斎藤拙堂(せつどう)によると、「おのずから道に適(かな)ったこともあるけれども、私心偏見を免れないことも多」かった。その一つ二つをいってみると、追腹(おいばら)を切るのを忠としたり、亡命の人をはごくむのを義とする類は、みな孟子(もうし)のいわゆる「不義の義」というもので、もっとも道に背いているのは、切り取り強盗は武士の習いということさえあるに至った。しかしこれでは困るので、「聖人の道をあきらめて、義の至当をもとむるこそ真の士道といふべけれ」といって、聖人の道による士道の確立を拙堂は叫んでいるが、前記の「一つ二つ」の私心偏見は『葉隠』の武士道にもみいだされるところで、その意味で戦国武人の道たる武士道と儒者の説いた士道は、まさに鋭角的に対立する関係にあった。

[古川哲史]

『磯貝正義他校注『改訂甲陽軍鑑』全3巻(1976・新人物往来社)』『新渡戸稲造著、矢内原忠雄訳『武士道』(岩波文庫)』『山本常朝著、和辻哲郎・古川哲史校訂『葉隠』(岩波文庫)』『大道寺友山著、加来耕三訳『武道初心集』(教育社新書)』

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