武原はん(読み)たけはらはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「武原はん」の意味・わかりやすい解説

武原はん
たけはらはん
(1903―1998)

日本舞踊家。本名幸子。徳島市生まれ。1914年(大正3)大阪南地の芸妓(げいぎ)学校大和家(やまとや)に入り、山村千代に山村流の舞を学ぶ。30年(昭和5)東京に居を移し、2世西川鯉三郎(こいさぶろう)、6世藤間勘十郎に師事した。流派をたてずに、上方(かみがた)舞を独自の新鮮な舞台の舞として仕上げ、52年(昭和27)から独舞の会を開催した。その美しい容姿を生かした浮世絵うつしの舞姿は無類で、小倉遊亀(おぐらゆき)をはじめ著名画家の作品ともなった。細緻(さいち)精巧な「心の舞」を特色とし、「武原はん舞の会」は91歳まで40回続けられた。『雪』『黒髪』『袖の露』『吉原八景』などのほか、新作にも『のちの雪』『杜若(かきつばた)』『大原御幸(おはらごこう)』など佳品が多い。句集、随筆集もたびたび刊行された。88年文化功労者に選ばれる。

如月青子

『句集『小鼓』(1954・琅玕洞)』『写真集『舞』(1972・求龍堂)』『随筆集『のちの雪』(1978・光風社)』『武原はん著『武原はん一代』(1996・求龍堂)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「武原はん」の意味・わかりやすい解説

武原はん (たけはらはん)
生没年:1903-98(明治36-平成10)

日本舞踊家。本名武原幸子。徳島市出身。1914年大阪南地の芸妓学校大和家に入り,山村流の舞を修得。30年東京に移り,6世藤間勘十郎,2世西川鯉三郎に師事。52年から独舞の会を続ける。美しい容姿と精緻な技芸により〈心の舞〉を追究し,〈動く浮世絵〉ともいわれる独自の世界をつくりあげた。地歌《雪》が有名で,《大原御幸(おはらごこう)》(1976)等新作にも秀作が多い。著書《のちの雪》(1978)がある。85年日本芸術院会員,88年文化功労者。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「武原はん」の意味・わかりやすい解説

武原はん
たけはらはん

[生]1903.2.4. 徳島,徳島
[没]1998.2.5. 東京
日本舞踊上方舞名手。本名武原幸子。 1914年 12歳で大阪の大和屋 (芸妓学校) に入り,山村流の山本千代に舞を習った。 40年頃から歌舞伎舞踊の2世西川鯉三郎に師事。すぐれた容姿を生かした舞姿で,東京で活躍。代表曲に『雪』『葵の上』『帯屋』『黒髪』そのほか新作がある。また 1939年より高浜虚子に師事,『ホトトギス』同人として俳句を詠む。 85年日本芸術院会員,88年文化功労者。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「武原はん」の意味・わかりやすい解説

武原はん【たけはらはん】

日本舞踊家。本名幸子。徳島県生れ。大阪の大和屋芸妓学校で山村流の上方舞を習得,1930年ごろ上京し6世藤間勘十郎らに師事。上方の座敷舞を舞台芸術にまで高め,心を舞う〈動く浮世絵〉ともいわれる独自の世界を作り上げた。また高浜虚子に俳句を師事,俳号は〈はん女〉で《武原はん一代句集》があり,随筆集に《のちの雪》などがある。1985年芸術院会員,1988年文化功労者。
→関連項目上方舞

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「武原はん」の解説

武原はん たけはら-はん

1903-1998 大正-平成時代の日本舞踊家。
明治36年2月4日生まれ。大阪の大和屋芸妓学校で山村流の上方舞などをまなぶ。のち東京で2代西川鯉三郎らに師事。昭和27年より武原はん舞の会をひらき,上方の地唄舞を工夫して独自の美の世界をつくる。60年芸術院会員,63年文化功労者。平成10年2月5日死去。95歳。徳島県出身。本名は幸子。俳号ははん女。
【格言など】これでもかというほど稽古しておかないと安心して舞台に立てません

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

靡き

1 なびくこと。なびくぐあい。2 指物さしものの一。さおの先端を細く作って風にしなうようにしたもの。...

靡きの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android