正徹(読み)ショウテツ

デジタル大辞泉 「正徹」の意味・読み・例文・類語

しょうてつ〔シヤウテツ〕【正徹】

[1381~1459]室町前期の歌人・禅僧備中の人。あざな清巌せいがん。号、松月・招月。東福寺の書記を務めたことから徹書記ともいう。歌を冷泉為尹れいぜいためただ今川了俊に学び、藤原定家を崇拝し、新古今風の夢幻的で余情をたたえた歌を詠じた。家集「草根集」、歌論書「正徹物語」など。

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精選版 日本国語大辞典 「正徹」の意味・読み・例文・類語

しょうてつ シャウテツ【正徹】

室町前期の歌人。字(あざな)は清巖。庵号は招月。徹書記とも呼ばれる。備中国岡山県)の人。幼い頃上洛し、今川了俊の門にはいる。「頓証寺法楽歌」などで歌壇に出たが、藤原定家に傾倒した妖艷夢幻な歌風は当時主流であった二条派から異端視され、将軍足利義教にも憎まれて、最後の勅撰集である「新続古今集」にも入集しなかった。一方、崇拝者も多く、心敬・宗砌(そうぜい)らに影響を与えた。家集「草根集」、歌論書「正徹物語」、紀行文「なぐさめ草」、「源氏物語」の注釈書「一滴集」などの著がある。永徳元~長祿三年(一三八一‐一四五九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「正徹」の意味・わかりやすい解説

正徹
しょうてつ
(1381―1459)

室町前期の歌僧。幼名は尊命丸(尊明丸)(そんみょうまる)。初名は正清(まさきよ)。出家以後正徹と称した。庵(あん)号は了俊(りょうしゅん)の号を受けて松月庵(しょうげつあん)(または招月庵)。字(あざな)は清巌(せいがん)。東福寺の書記を務めたので徹書記ともいう。備中国(びっちゅうのくに)(岡山県)小田庄(おだのしょう)の神戸(こうど)山城主小松康清(やすきよ)、または秀清の子息と伝えられる。1395年(応永2)ごろ幕府奉行治部方(じぶかた)の月次(つきなみ)歌会に出座し、冷泉(れいぜい)派の為尹(ためまさ)、為邦(ためくに)、了俊らと出会ったことが、歌人としてたつ契機となった。1414年(応永21)出家し、まもなく東福寺に入寺し、東漸(とうぜん)健易に師事した。同年4月の『頓証寺法楽(とんしょうじほうらく)一日千首』などに出詠して歌人としての力量を認められ、その後、公武僧の主催する多くの歌会に出座、精力的な歌壇活動を展開した。32年(永享4)に草庵が類火にあい、20歳以来の詠草二万数千首が灰燼(かいじん)に帰し衝撃を受けた。また永享(えいきょう)期(1429~41)には、将軍足利義教(あしかがよしのり)に忌避され、ために草庵領を没収されたり、勅撰(ちょくせん)集『新続古今集(しんしょくこきんしゅう)』に1首も入集されない悲運をなめた。義教の死後、歌壇に復帰し、晩年には将軍義政(よしまさ)に『源氏物語』を講じた。作品には、1万1000余首の家集『草根(そうこん)集』をはじめ、永享5、6、9年の年次(ねんじ)詠草があるほか、歌論書『正徹物語』、紀行『なぐさめ草』もある。藤原定家に傾倒し、「夕暮を待つに命を白鳥のとはにうき世をさそふ山風」のような夢幻的で縹渺(ひょうびょう)とした歌を詠じた。

[稲田利徳]

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百科事典マイペディア 「正徹」の意味・わかりやすい解説

正徹【しょうてつ】

室町前期の歌人。俗名は小松正清(信清とも)。清巌,松(招)月と号し,東福寺の書記を務めたので徹書記とも呼ばれた。備中国小田荘に生まれ,10歳のころ父とともに出京,和歌を冷泉派の冷泉為尹(ためまさ)や今川了俊に学び,応永(1394年―1428年)の中ごろには出家して,東福寺に入った。藤原定家を尊崇し,反二条派の革新的立場を貫いた。その主張は歌論書《正徹物語》にくわしい。歌風は妖艶(ようえん)幽玄で,生涯数万首の多作家。門下からは宗砌心敬ら著名な連歌師が輩出している。家集に《草根集》がある。
→関連項目藤原定家冷泉家

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改訂新版 世界大百科事典 「正徹」の意味・わかりやすい解説

正徹 (しょうてつ)
生没年:1381-1459(弘和1・永徳1-長禄3)

室町前期の歌人。本名は小松正清,あるいは信清。正徹は法名。別号を清巌,庵号を松(招)月庵という。徹書記の称は京都東福寺の書記を務めたため。備中国小田荘の地頭小松康清の次男として出生,10歳ごろ父に伴われ京都に出,15歳ごろにはすでに冷泉派の月次歌会に出席,のち同派の冷泉為尹(れいぜいためまさ)や今川了俊に師事した。応永(1394-1428)の中ごろ,出家して東福寺に入る。歌風は同時代の作風にあきたらず新古今調を採り,とりわけ藤原定家の作風を理想とするその主張は,歌論書《正徹物語》にくわしい。歌人としては多作家で,作品総数4万首とも5万首ともいわれ,その一部は家集《草根集(そうこんしゆう)》として伝わるほか,《正徹千首》をはじめ多くの定数歌がある。門下から正広(しようこう),宗砌(そうぜい),智蘊(ちうん),心敬らの著名な歌人,連歌作者が輩出し,影響が大きい。〈渡りかね雲も夕べを猶たどる跡なき雪の嶺のかけはし〉(《自讃歌》)。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「正徹」の意味・わかりやすい解説

正徹
しょうてつ

[生]弘和1=永徳1(1381).備中,小田庄
[没]長禄3(1459).5.9.
室町時代の歌僧。本名,小松正清。松月または招月と号し,清巌和尚,徹書記ともいう。右筆となったが和歌を冷泉為尹 (れいぜいためまさ) ,今川了俊について学び,応永の中頃東福寺に入り,書記をつとめた。応永 25 (1418) 年伊勢,尾張に旅行して『源氏物語』を講じ,『なぐさめ草』を書いた。歌風は清新で新古今調,特に藤原定家の風体を目指したが,意表に出た奇抜な作もあり,風刺的な歌を詠んで,将軍あるいは天皇の怒りを受け,流されたという伝説もある。多作で家集『草根集』には二万余首があったらしい (丹鶴叢書本に一万一千余首所収) 。ほかに『正徹千首』,歌論書『正徹物語』などがある。

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旺文社日本史事典 三訂版 「正徹」の解説

正徹
しょうてつ

1381〜1459
室町中期の歌人。臨済宗の僧
備中(岡山県)の人。東福寺の書記となり,徹書記といわれる。和歌を今川了俊に学ぶ。二条家流を排し藤原定家を尊重し,みずから定家宗と称した。歌風は余情妖艶な幽玄風。家集に『草根集』,歌論書に『正徹物語』がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「正徹」の解説

正徹 しょうてつ

清巌正徹(せいがん-しょうてつ)

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世界大百科事典(旧版)内の正徹の言及

【草根集】より

…室町時代の正徹の家集。正徹自身の手で,ある程度まとめられ,没後それをもとに弟子の正広が編纂したと推定される15巻本(日次(ひなみ)系,1万1236首,1473年(文明5)の一条兼良の序文を付す)と,さらにそれを編みなおした類題系のものとがある。…

※「正徹」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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