正中の変(読み)しょうちゅうのへん

精選版 日本国語大辞典 「正中の変」の意味・読み・例文・類語

しょうちゅう【正中】 の 変(へん)

正中元年(一三二四後醍醐天皇による鎌倉幕府討伐計画からおこった政変天皇は、即位以来、日野資朝、俊基らの公家土岐頼兼、多治見国長らの武士と討幕計画をすすめたが、計画が事前にもれて失敗。資朝は、佐渡に配流されてのちに殺されたが、天皇は、無関係であると釈明してことなきをえた。

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デジタル大辞泉 「正中の変」の意味・読み・例文・類語

しょうちゅう‐の‐へん〔シヤウチユウ‐〕【正中の変】

正中元年(1324)後醍醐天皇が側近の日野資朝ひのすけともらと鎌倉幕府討伐を企てた政変。計画が事前に漏れて失敗し、資朝は佐渡に配流ののち殺されたが、天皇は無関係であると釈明して事なきを得た。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「正中の変」の意味・わかりやすい解説

正中の変
しょうちゅうのへん

1324年(正中1)に後醍醐(ごだいご)天皇が鎌倉幕府討滅を策し失敗した政変。1318年(文保2)の即位以来、政治に意欲を燃やし、21年(元亮1)に親政を実現した天皇は、幕府の皇位相続への干渉を絶とうとし、側近の参議日野資朝(ひのすけとも)、蔵人頭(くろうどのとう)日野俊基(としもと)らと謀り、ひそかに幕府を倒す謀議を重ねた。23年資朝はひそかに東国へ、俊基も病気療養のためと称して南畿(なんき)方面に下向し、同志の糾合に努めた。当時鎌倉幕府は内政の矛盾に苦しみ、北条(ほうじょう)氏の内訌(ないこう)もあり、その専制政治に一般御家人(ごけにん)も不満を抱いていたから、好機到来と判断したのであろう。しかし24年9月、密告によって情報をつかんだ六波羅(ろくはら)の兵は、挙兵準備中の美濃(みの)国(岐阜県)の武士多治見国長(たじみくになが)、土岐頼貞(ときよりさだ)(頼兼(よりかね))の京都の宿所を急襲し攻殺した。ついで資朝、俊基らを謀議の中心人物として逮捕し、鎌倉に護送して厳重に取り調べた。一方、天皇は老臣万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)を鎌倉に急派し、得宗(とくそう)北条高時(たかとき)に、関与していない旨を陳弁し、資朝も自己一身に責任を負ったので、幕府も深く追及せず、俊基も許されて京都に帰った。このように第1回目の倒幕計画は事前に発覚、失敗したが、これがやがて第2回目の挙兵、元弘(げんこう)の変につながっていくのである。

[五味克夫]

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改訂新版 世界大百科事典 「正中の変」の意味・わかりやすい解説

正中の変 (しょうちゅうのへん)

後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうとして失敗した初度の政変。天皇は1321年(元亨1)12月親政を開始し政道刷新に旺盛な意欲をみせた。天皇の卓越した指導力は公家社会の嘱目するところとなり,日野俊基ら儒臣との宋学研究は,大義名分の上から討幕を理由づけたと思われる。また天皇は一代主と定められていたため,両統迭立の原則を示し続ける幕府の存在は厚い障壁となっていた。一方幕府も内紛と寺社勢力の敵対に苦しみ,各地では悪党が跳梁するなど,幕府の専制支配にも破綻が顕著となった。この機をとらえた天皇は日野資朝ら近臣とはかって反幕勢力を糾合して,討幕計画を進めた。24年(正中1)9月23日の北野祭を期して挙兵する手はずであったが,同志の密告により事前に発覚,同月19日土岐頼有,多治見国長は六波羅軍に囲まれて自害した。資朝は佐渡配流。天皇は事件に無関係の旨の告文を幕府にいれて事なきを得た。
元弘の乱
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百科事典マイペディア 「正中の変」の意味・わかりやすい解説

正中の変【しょうちゅうのへん】

後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が失敗に終わった事件。かねて倒幕計画を進めていた天皇は,近臣日野資朝(すけとも)・同俊基らを地方に下して兵を集め,1324年(正中1年)六波羅(ろくはら)探題を襲おうとしたが,未然に発覚した。天皇は事件と無関係であることを誓って事なきを得たが,資朝は流罪となった。→元弘の乱日野俊基
→関連項目建武新政北条高時

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「正中の変」の解説

正中の変
しょうちゅうのへん

元亨(げんこう)の変とも。1324年(正中元)9月,後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が事前に露見し失敗した事件。日野資朝(すけとも)・同俊基(としもと)らと倒幕の計画を練り,山伏に身をやつした俊基を遣わして各地の情勢を調べさせていた天皇は,1324年,無礼講と称する会合を開き,僧游雅(ゆうが)・玄基・足助重成・多治見国長らと謀議を重ね計画を固めた。その内容は,9月23日北野祭で例年おこる喧嘩に乗じて六波羅探題北条範貞を殺し,山門・南都の衆徒に命じて宇治・勢多を固めるというものであった。しかし計画は六波羅探題の知るところとなり,9月19日土岐頼兼・多治見国長は六波羅軍に敗れ,資朝・俊基も捕らえられた。その後,鎌倉で取調べをうけた資朝は佐渡に流されたが,俊基はゆるされて帰京し,天皇も万里小路(までのこうじ)宣房を鎌倉に遣わして陳弁につとめ,処分を免れた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「正中の変」の意味・わかりやすい解説

正中の変
しょうちゅうのへん

元亨4 (1324) 年,後醍醐天皇が鎌倉幕府討滅を企て,事前に発覚して失敗した事件。即位以来,天皇親政を志していた天皇は,日野資朝,同俊基,土岐頼兼らと討幕計画を練ったが,計画が事前に発覚し,元亨4年9月 19日六波羅探題は兵をつかわして,土岐頼兼,多治見国長らを京都で殺害し,資朝,俊基を捕えた。幕府から工藤高景らが派遣され,10月4日資朝,俊基を鎌倉へ護送した。天皇は幕府に釈明して事なきを得たが,翌正中2 (25) 年8月,資朝は事件の首謀者として佐渡へ配流され,俊基は許されて京都へ帰った。この討幕計画は不発に終ったが,やがて元弘の乱が起ることになる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「正中の変」の解説

正中の変
しょうちゅうのへん

1324(正中元)年,後醍醐 (ごだいご) 天皇の鎌倉幕府討伐計画が発覚した事件
天皇は天皇親政を理想とし,院政を廃止し,日野資朝 (すけとも) ・日野俊基らと討幕挙兵を計画したが,幕府方にもれて失敗。しかし,資朝が一人で罪を負い佐渡に配流され,天皇は事件に関係ないと弁明して処罪をまぬがれた。

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