檜牧庄(読み)ひのまきのしよう

日本歴史地名大系 「檜牧庄」の解説

檜牧庄
ひのまきのしよう

肥伊ひい牧の開発に始まる荘園。「日本後紀」延暦一八年(七九九)七月二八日条に「停大和国宇肥伊牧、以接民居損田園也」とあり、開発がすすみ、肥伊牧が停止されたことがうかがえるが、平安遷都以後軍事・政治上の意味を失ったことにもよるのであろう。この開発は在地の豪族県氏によるものであり、いずれ檜牧庄となる。所在は荘号等からみると現大字檜牧に比定される。

相伝次第等は、建久九年(一一九八)の七条院藤原殖子庁下文案(東寺百合文書)に「大和国檜牧庄官等 可任権律師長厳寄文為御領事 在管宇陀郡 四至東限焼峯 西限比曾口 南限塵峯 北限下津尾 右、今年八月日彼長厳寄文、件庄者、県清理開発私領也、清理譲県仲子、仲子処分子息僧快秀、快秀処分舎弟平孝通、孝通譲加賀前司頼房(藤原)、頼房譲子息僧寂覚、沽却真源、又沽却守延、守延処分守遠、相伝数代之間、敢無異論(下略)」とあるが、この最後の守遠知行の時「大夫局」の妨を防ぐため、鳥羽天皇皇后高陽院の祈願寺福勝ふくしよう(現京都市左京区)に寄進し、そのもとで平守遠のあと平相遠、平守相、長厳へと相伝されたが、なお紛争が続くので、その解決のために長厳は七条院(高倉天皇後宮)に当庄本家職を寄進した。安貞二年(一二二八)の七条院藤原殖子処分目録案(東寺百合文書)には「大和国檜牧庄法花堂領」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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