樺島浦(読み)かばしまうら

日本歴史地名大系 「樺島浦」の解説

樺島浦
かばしまうら

[現在地名]野母崎町樺島

中世よりみえる伊佐早いさはや庄内の湊津。康安元年(一三六一)一一月二九日の重広所領譲状(深堀文書)に「いさはやのしやう□うち、ひのミさき、そのうちかハしま」とみえ、深堀氏一族と思われる重広(対馬氏か)が故殿の勲功によって与えられた当所を又五郎(清綱)に譲っており、伊佐早庄肥御崎ひのみさきのうちであったことが知られる。応安七年(一三七四)ミたとく丸は正平二三年(一三六八)から応安七年までの「□はしまのくんちうようとう」二貫七八八文を請取っている(同年六月二七日「ミたとく丸くんちう用途請取状」同文書)

一五六七年(永禄一〇年)イエズス会のサンチェス修道士が布教を肥後天草の志岐あまくさのしき(現熊本県苓北町)から始めて樺島Cabaximãoに来て三〇〇人に洗礼を授けたが、当地の領主はすでに四年前にキリシタンとなり、神父の来島を待っていたという。また船舶は島の領主の許可がないと通過できないことから、すべての船は敬意を表すために入港してきており、キリシタンも異教徒も多数混在しているという。また三人の僧のうち高貴にして文学に通じた者はパードレと大いに議論、のちキリシタンとなったあともさまざまな微妙な疑問について質してきたという(同年一〇月一三日「サンチェス書簡」イエズス会士日本通信)。同年ヴィレラ神父は樺島で日和待ちをしている間に多数の授洗を行ったと伝え(一五六八年「ヴァス書簡」同通信)、のちには小さき島であるカベシュマに約四〇〇人ものキリシタンがおり、二つの教会が建立されていた(一五七一年一〇月二〇日「ヴィレラ書簡」同通信)。一五七〇年(元亀元年)カブラル神父も志岐からカベシュマに来島してキリシタンを見舞い、数人に洗礼を与えた(同年一〇月一五日「アルメイダ書簡」同通信)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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