横須賀功光(読み)よこすかのりあき

日本大百科全書(ニッポニカ) 「横須賀功光」の意味・わかりやすい解説

横須賀功光
よこすかのりあき
(1937―2003)

写真家。横浜市生まれ。1960年代にデビューして以来、広告写真の分野を中心に活躍した。1956年(昭和31)日本大学芸術学部写真学科入学。在学中から化粧品メーカー資生堂PR誌の表紙写真を撮る仕事を手がける。1960年同大学を卒業後、フリーのカメラマンとして、資生堂宣伝部による広告キャンペーンに参加。また、ファッション写真の撮影もはじめる。鋭く緻密な造形感覚に貫かれた作風を繰り広げ、新世代の才能として早くから脚光を浴びた。1963年『カメラ毎日』誌に発表した作品「モード・イン」などが評価され、日本写真批評家協会新人賞、日本写真協会新人賞を受賞。また同年資生堂広告キャンペーンの仕事でアート・ディレクターズ・クラブADC)賞特別賞ほか、各賞をたて続けに受賞した。1964年、金属プラスチックなどの素材と光とが織りなす硬質で抽象的なイメージの世界をとらえた作品「射」を発表。1966年夏の資生堂広告キャンペーン「太陽に愛されよう」のため、日本広告界初の本格的海外ロケとしてハワイで前田美波里(びばり)(1948― )をモデルに撮影したポスター(アート・ディレクション中村誠(1926―2013)、デザイン石岡暎子)の写真は、1960年代日本の広告文化を代表するイメージの一つとしてとくに名高い。1968年からはコマーシャル・フィルムの演出、撮影も手がけるようになる。

 1969年の個展(ニコンサロン、東京・銀座)で、空間と身体の相互関係を鋭く凝視したヌード作品「亜」を発表。1970年代にアート・ディレクター石岡と手がけたパルコ角川書店などの広告キャンペーンでの一連の仕事においても、湿った情緒を排し、クールで強靭な視覚表現を追求し大きなインパクトを与えた。1974年東松照明細江英公深瀬昌久(まさひさ)、荒木経惟(のぶよし)、森山大道らと「ワークショップ写真学校」(東京)の設立に参加、1976年の解散まで活動した。1989年(平成1)個展「光銀事件」(ニコンサロン)により伊奈信男賞受賞。1993年プラチナ・プリント(プラチナの感光性を利用した印画法。長期保存に優れる)作品による個展「エロスの部屋」(資生堂ギャラリー、東京)開催。晩年は母校の日本大学芸術学部写真学科で教壇に立ち、後進の指導にあたった。

[大日方欣一]

『『現代の映像9 射』(1972・中央公論社)』『『ザ・グッド=バッド・ガール』(1982・講談社)』『『月・LUNA 小夜子/山海塾』(1986・Parco出版)』『「日本写真の転換 1960年代の表現」(カタログ。1991・東京都写真美術館)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「横須賀功光」の解説

横須賀功光 よこすか-のりあき

1937-2003 昭和後期-平成時代の写真家。
昭和12年11月26日生まれ。41年前田美波里(びばり)をモデルにした資生堂のポスターで脚光をあび,広告やファッション界で活躍。日本写真批評家協会新人賞,広告電通賞制作者賞,講談社出版文化賞,伊奈信男賞などを受賞。平成15年1月14日死去。65歳。神奈川県出身。日大卒。写真集に「射」「小夜子」など。

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