横浜(市)(読み)よこはま

日本大百科全書(ニッポニカ) 「横浜(市)」の意味・わかりやすい解説

横浜(市)
よこはま

神奈川県の東部にある県庁所在地。東京湾に面し、日本最大級の貿易港をもち、北東部と南部の臨海地域、また内陸に広がる工業地域は京浜工業地帯の中核をなす。政令指定都市で、人口は東京都区部に次ぐ日本第二の大都市。

 1889年(明治22)市制施行時は、面積5.4平方キロメートル、人口約11万6000にすぎなかった。1901年(明治34)久良岐(くらき)郡戸太(とだ)町と本牧(ほんもく)、中、根岸の3村、橘樹(たちばな)郡神奈川町、宮川村、1911年久良岐郡屏風浦(びょうぶがうら)、大岡川の2村の各一部、橘樹郡子安村の一部、1927年(昭和2)橘樹郡鶴見(つるみ)、保土ケ谷(ほどがや)の2町と旭(あさひ)、大綱(おおつな)、城郷(しろさと)、都筑(つづき)郡西谷、久良岐郡大岡川、日下(くさか)、屏風浦の7村を編入して、鶴見、神奈川、中、保土ケ谷、磯子(いそご)の5区が誕生。1936年久良岐郡金沢町、六浦荘(むつらのしょう)村を磯子区に、永野村を中区に、1937年橘樹郡日吉(ひよし)村の一部を神奈川区に編入。1939年都筑郡川和町と新治(にいはる)、田奈(たな)、中里、新田、中川、山内の6村と神奈川区の一部を編入して港北区(こうほくく)、鎌倉郡戸塚(とつか)町と中川、川上、豊田(とよだ)、本郷、大正、中和田、瀬谷(せや)の7村を編入して戸塚区を設置、都筑郡都岡(つおか)、二俣川(ふたまたがわ)の2村を保土ケ谷区に編入、1943年中区の一部から南区、1944年中区の一部から西区がそれぞれ分離独立、1948年(昭和23)磯子区の一部から金沢区が分離独立、1959年藤沢市の一部を編入、1963年戸塚区の一部を藤沢市に割き、1968年町田市の一部を編入、1969年港北区から緑区、保土ケ谷区から旭区、南区から港南区、戸塚区から瀬谷区がそれぞれ分離独立、14区となった。さらに1986年には戸塚区から栄区、泉区が分離独立して16区となる。1994年(平成6)港北区、緑区が再編成、青葉区、都筑区を新設し、現在の18区となった。総面積437.71平方キロメートル、人口377万7491(2020)。

 横浜の人口は、第二次世界大戦後の復興の進展に伴って急激に増加し、1951年に100万を超え、1962年に150万、1968年には200万、1985年末は300万を突破し、東京都区部に次いで全国第2位となり、その増加率は国内諸都市中最高となっている。これら増加人口の転入元は、県内のほか、東京都や関東諸県(東京ブロック)からがもっとも多く、とくに東京都の人口圧の影響を直接受け、市内につくられる住宅団地にも東京への通勤者用が多いのが特色である。

[浅香幸雄]

自然

市域は、北部から中部にかけては多摩丘陵の南東部にあたり、侵食が進んで標高40~50メートルの台地状をなし、東端は本牧岬となっている。鶴見区から港北区南部にかけては、下末吉台地(しもすえよしだいち)といわれる一段低い台地になっている。鶴見川、帷子(かたびら)川の本・支流は多摩丘陵を侵食して多くの樹枝状の谷をつくり、鶴見川本流に沿うJR横浜線沿いにはやや広い沖積平野がみられ、鶴見川支流の早淵(はやぶち)、谷本(やもと)両川や帷子川や南の大岡川などに沿っても沖積平野が広がる。南部のJR根岸線がほぼ東西方向をとるあたりから南の丘陵は、多摩丘陵から三浦半島の丘陵へ移り変わる地域にあたり、起伏はより大きくなり、円海山(えんかいざん)(153メートル)は展望のよい勝地として古くから知られる。西部の瀬谷区から泉区、戸塚区へかけた平坦(へいたん)地は、西方に広がる相模原(さがみはら)台地面と同高位の洪積台地である。南西の柏尾(かしお)川は東の円海山地と西の相模原台地の水を集めて南流し、戸塚あたりから下流に沖積平野をつくっている。東京湾岸には、江戸時代につくられた吉田新田(しんでん)(中区)をはじめ、帷子川下流の岡野、平沼両新田(西区)の開発による低平地がある。また、横浜港、本牧地先、根岸湾岸、金沢地先などは、おもに20世紀に入ってからの数次にわたる大規模な埋立地造成による全国有数の人工海岸地域をなしている。気候は、東京湾岸地域は臨海性で東京湾気候区(関東平野気候区の亜区)に入れられ、東京に比べて温和で海洋性である。年平均気温(1981~2010)は15.8℃で、東京の16.3℃とほとんど変わらない。夏・冬の平均気温も東京とほぼ同じである。また、内陸部は日較差、年較差がともに大きい。植生は、南部の丘陵はコナラ、クリ林で、北部の多摩丘陵はクヌギ、コナラ林、クロマツ、落葉広葉樹林に覆われている。

[浅香幸雄]

歴史

東京湾岸や鶴見川、帷子川、柏尾川の流域では世界的に最古といわれる縄文早期の撚糸文(よりいともん)土器が発見され、ことに鶴見川の支流早淵川左岸台地上の南堀貝塚(みなんぼりかいづか)(都筑区南山田町)からは約50戸の竪穴(たてあな)住居跡が、中央の広場を中心に馬蹄(ばてい)形に分布しているのがみつかり、また、生産用具や装飾品、それに食糧の遺物がみつかり、大型の石皿と土器片も出て、いもや野菜を採集して定住生活をしていたことを考えさせるものであった。そして縄文時代の遺跡は、当時、海沿いはもとより内陸の山あい地域にも広くみられ、集落規模も大きくなりつつあったことを示している(金沢区称名寺貝塚(しょうみょうじかいづか))。磯子区岡村町の三殿台遺跡(さんとのだいいせき)は、縄文、弥生(やよい)、古墳の3時代にわたる集落跡の遺跡として知られ(80%は弥生)、ここでは稲作が取り入れられて農耕生活に入ると、人々は湿地帯でもいくらか高い自然堤防上に住むようになり、集団生活も血縁集団から地縁集団へと変わり、一地域に長く住み続けるようになっていた。また都筑区の大塚・歳勝土遺跡(おおつかさいかちどいせき)も弥生時代の集落遺跡として知られている。

 市内には観音松(かんのんまつ)古墳(港北区)、軽井沢(かるいざわ)古墳(西区)、瀬戸ヶ谷(せとがや)古墳(保土ケ谷区)、稲荷前(いなりまえ)古墳群(青葉区)、朝光寺原(ちょうこうじばら)古墳群(青葉区)などの遺跡があり、埴輪(はにわ)や盾、直刀などの副葬品も出土している。古墳は、農耕社会が発展して共同生活の規模が拡大し、中央では大和(やまと)朝廷が形成され、権力者が生まれ、埋葬法が儀礼化してきたことに伴う市域の様相である。七石山、市ヶ尾(いちがお)の横穴群は古墳の変形で小型化して群集墳となったもので、港北、都筑、緑、青葉、戸塚、栄の各区や鎌倉市ではこうした終末期的古墳の横穴が多くみられる。

 古代には市域のほとんどは武蔵(むさし)国に属し(泉、戸塚、栄、瀬谷の4区と港南区・金沢区の一部は相模国)、都へは皇居を守る衛士(えじ)、筑紫(つくし)(北部九州)へはその地の警備にあたる防人(さきもり)を出していた。港南区には条里型水田がみられ、8世紀末には弘明寺(ぐみょうじ)(南区)が建てられ、港北区の杉山神社は市内唯一の式内社で、北部には石川、立野(たての)の両牧(まき)が置かれていた。10世紀後半からの荘園(しょうえん)の展開期には、市内に荏田(えだ)、榛谷(はんや)、平子(たいらこ)、石川、舞岡、長尾、今泉などの諸荘が開かれていた。これらのうち早く荘園開発を行ったのは関東平氏の平子氏で、11世紀には本牧、根岸、磯子など市域の中部、南部を領していた。12世紀末に鎌倉幕府が開かれると、市内には鎌倉から関東の諸地方へ通じる幹線道路(鎌倉道)が3線も通じ、市域の開発が活発に進められた。また、源頼朝(よりとも)は、石橋山で彼を助けて戦死した佐奈田(さなだ)与一の追善供養のため山内荘の戸塚(現、栄区)に証菩提寺(しょうぼだいじ)を建てた。北条氏が執権になると、鶴見川中流域の水田化が進められ、鎌倉から房総半島へ渡る要地の金沢に称名寺や金沢文庫が建てられ、金沢学校が開かれていたことはよく知られる。14世紀になると鶴見、帷子両川の流域や東京湾岸低地の開発が進められた。そして大規模荘園の中心地には市場がつくられ、それらを結んで船の交通が始まり、神奈川湊(みなと)ができ、15世紀には神奈川、品川両湊と八丈島間の交易も行われた。

 16世紀になって後北条(ごほうじょう)氏が駿河(するが)、伊豆から小田原へ進出して南関東一帯を治めるようになると、平子氏は領地を失って越後(えちご)国(新潟県)へ逃れ、その旧領は後北条氏の姻戚(いんせき)の吉良氏(きらうじ)(蒔田(まいた)城主)が領することとなり、本牧領と改称された。

 江戸時代には市域の大部分は、江戸に近いということで、幕府の天領にされ代官が支配した。のち功労のあった旗本に天領を割いて与えられ、元禄(げんろく)(1688~1704)ごろには市域の大部分が旗本領となっていた。大名領としては1696年(元禄9)にたてられた六浦藩(むつうらはん)(1万2000石、米倉(よねくら)氏)がみられるだけである。1601年(慶長6)の東海道の伝馬制の開始時には、神奈川、保土ケ谷、戸塚(1604年から)の3地が宿場町となった。ついで街道沿いに1里(約4キロメートル)ごとに一里塚がつくられ、市内では7地(市場(いちば)、子安、神奈川、保土ケ谷、品濃(しなの)坂、吉田、原宿(はらじゅく))を数える。のち宿場間の休憩地として立場(たてば)が設けられたが、それには多くは一里塚付近があてられていた。また、中後期になって東海道の交通が輻輳(ふくそう)してくると、中原、矢倉沢の両脇往還(わきおうかん)が東海道を補うこととなり、それらの宿場もにぎわうようになった。神奈川宿は湊を兼ね、江戸湾を通じて品川湊や三浦、房総両半島の諸浦との交通、輸送の基地の役割をも果たし、神奈川県内では小田原城下町をもしのいでいた。また海岸や大岡、帷子両川の河口三角州の開拓が進められ、吉田、横浜、岡野、平沼の諸新田が開かれた。

 幕末期に至り、米使ペリーは1853年(嘉永6)に浦賀(横須賀(よこすか)市)に来航し、その翌年横浜で日米和親条約(神奈川条約)が結ばれた。ついで1858年(安政5)には日米修好通商条約が調印され、その翌年横浜は長崎、兵庫、新潟、箱館(はこだて)とともに日本最初の開港場となり、幕府は、横浜に埠頭(ふとう)や倉庫、運上所(うんじょうしょ)(税関)などの港湾施設や外国人居留地(関内(かんない))を整え、市街地づくりを進めた。のち生麦事件(なまむぎじけん)(1862)や井土ヶ谷(いどがや)事件(1863)など居留外国人に対する殺傷事件が起こったが、そうした間にも横浜は急速に発展しつつあった。

 明治になり、新政府は横浜を東京の外港とし、近代的港湾や都市の建設を急ぎ、横浜税関長には大臣級の有力者をあて、神奈川県知事を兼ねさせた。以後横浜は神戸とともに国際貿易都市として発展し、また欧米先進文化輸入の関門となり、電信、鉄道、電灯、水道、ガス、新聞、競馬、公園、洋書店、洋食店、ビール醸造などは横浜で始められ、洋風文化の先駆地となった。貿易は順調に進展し、港湾施設も整えられ、貿易額はつねに全国の首位を占めていた。大正の関東大地震(1923)は横浜市全域に大被害を与え、港湾機能は停止され、外国商社はしだいに根拠地を東京へ移し始めた。昭和初期には震災から復興し、新たに近代的港湾施設が増設されたが、第二次世界大戦の末期には大空襲を受け、市街地の42%が焼失した。

 第二次世界大戦後は、港湾施設の90%と戦災を免れた土地建物の大半がアメリカ軍に接収され、横浜の産業経済活動は麻痺(まひ)状態に陥り、市内には失業者があふれていた。市の財政は悪化し、戦災復興はほかの被災都市に比べて著しく遅れた。1952年(昭和27)、港湾の中核施設の大桟橋、新港埠頭の接収解除を機としてようやく活況を取り戻し、国際港湾都市の建設に踏み出すこととなった。接収中の代替え施設として着工中であった高島・出田(でた)町の両埠頭、山下・本牧の両大埠頭、それに根岸湾埋立て事業、民間の大黒(だいこく)埠頭の拡張事業、また金沢地先埋立て事業が相次いで完成した。造成された工業用地には臨海性の食料品、化学、機械などの大工場や市内の中小工場が進出、移転し、横浜の工業力を強めるもとをなしている。

[浅香幸雄]

産業

貿易港湾都市横浜には、早くから土産(みやげ)品向きのスカーフや漆器工業、輸入原料を加工する精糖などの軽工業がおこっていた(現在スカーフその他は南区を主に中小家内工場で行われる)。近代工業は、明治末期から大正前期にかけて鶴見区から川崎市へわたる埋立地におこり、大正中ごろからは重化学工場が相次いで進出してきた。それらはいずれも中央資本による石油精製、製鉄、造船、自動車、重電機器、食料品(精糖、ビール)の大工場で、現在京浜工業地帯の核心をなし、諸工場の専用埠頭群は世界の臨海工業地帯中の壮観とされている(横浜市としてはいまは横浜北部臨海工業地域)。また第二次世界大戦後の朝鮮戦争の勃発(ぼっぱつ)(1950)に伴う特需を契機として、南部に造成された本牧、根岸湾、金沢地先などの埋立地には、石油化学コンビナート、機械、船舶修理、火力発電などの大規模工場群と中小工業団地が進出し、横浜南部臨海工業地域とよばれ、トラックターミナル、倉庫群が進出している。しかし、重厚長大型産業を中心とした臨海工業地域は産業構造の変化により空洞化が進行したため、1996年(平成8)より県・横浜・川崎の3者による京浜臨海部再編整備協議会が発足し、2002年には京浜臨海部が「都市再生予定地域」に設定された。また、第二次世界大戦中から戦後にかけて東海道本線の戸塚駅付近(横浜南部内陸工業地域)や、横浜線や諸国道沿いには、軽電機器をはじめ一般機械や精密機械、食料品などの大・中工場の進出が目覚ましく、横浜北部内陸工業地域とよばれる。

 横浜の貿易は、開港当初はすべて外国商館が主導するいわゆる商館貿易であった。すなわち、横浜から輸出される日本産品(生糸、茶、海産物)の取引はすべて横浜在住の外国商人によって行われ、外国からの輸入品(綿織物、毛織物)の取扱いも同じで、外国貿易による利益はほとんど外国商社に占められていた。これに驚いた幕府は1863年(文久3)に貿易制限を行ったが、欧米諸国の圧力で撤廃させられた。1873年(明治6)には横浜の日本人貿易商は生糸改(あらため)会社を設けて日本の生糸貿易を握り、1881年には生糸荷預所(にあずかりしょ)をつくって外国商人に対抗し、しだいに日本の貿易上の権利の回復を図り、1896年には生糸検査所が設けられて輸出生糸の検査が行われ、徐々に生糸の安全取引が進められることとなった。2012年の横浜の出入貨物量は1億2100万トン(輸出入約7100万トン、移出入約5000万トン)で名古屋、千葉に次いで日本第3位。国、県、市ともその振興に努め、貿易金融制度を充実させるとともに、貿易情報を集め海外見本市へ参加して販路の開拓を図っている。海外との経済や技術の交流を図り、国際化に応じた貿易振興政策も行っている。また、ニューヨークをはじめとするアメリカとの、上海(シャンハイ)を中心とした中国との、フランスのリヨンを通じたヨーロッパとの、香港(ホンコン)、シンガポールなどの東南アジアとの経済交流事業も行っている。外国貿易のおもな仕向け先はアメリカ、中国、台湾、韓国、オーストラリア、タイ、シンガポールなど、輸入先はサウジアラビアインドネシア、イラクなどの産油国と中国、アメリカ、韓国、オーストラリアなどである。

 横浜の商業は、いままでその人口数に比べて商店数、従業者数、販売額は多いとはいえなかったが、年々充実してきている。市内でも伊勢佐木町(いせざきちょう)のある中区、横浜駅西口・東口のある西区ではとくに販売額が多く、神奈川、鶴見、南の都心地区、また人口増加の著しい港北、戸塚、緑の3区がこれに次ぎ、増加率も高い。横浜の中心商店街は、第二次世界大戦前は「ザキ」の愛称で親しまれた伊勢佐木町通りであったが、戦後は横浜駅西口、それに近年は同東口一帯の市街地整備に伴って、東口周辺にも大型店が進出し、地下街もできて、活況を呈している。また港都「ヨコハマ」の特異な町並みに元町(もとまち)商店街と中華街がある。

[浅香幸雄]

交通

JR東海道新幹線・東海道本線・横須賀線・京浜東北線・根岸線・横浜線・鶴見線・南武線、京浜急行電鉄本線、東急電鉄東横線・田園都市線・こどもの国線・目黒線、相模鉄道本線・いずみ野線、横浜新都市交通金沢シーサイドライン、横浜高速鉄道みなとみらい線、横浜市営地下鉄ブルーライン・グリーンラインが通じる。国道は1号・15号・16号・246号・357号が通じ、主要道路は第三京浜新道、横浜新道、横浜横須賀道路、高速神奈川1号横羽(よこはね)線・2号三ッ沢線・3号狩場線・5号大黒(だいこく)線・7号横浜北線・7号横浜北西線、首都高速湾岸線が通じる。

[浅香幸雄]

観光・文化

地形的に丘陵性の多摩丘陵からなっていて、奥深い山地や峡谷はなく、丘陵斜面も市街地化されて自然の緑は少なくなっている。海に面しているが、海岸は埋立地の直線的な人工海岸がほとんどである。しかし、市の業務中心地区の県庁から大桟橋、山下公園に至る一帯には、幕末の開国・開港期に中心的役割を果たした史跡が連なり、町並みにも日本の文明開化、外来文化の芽生えた記念すべき地区が少なくなく、日本の開国に先駆けをなした港都ならではの雰囲気に満ちている。また、京浜工業地帯の核心をなす臨海、内陸の諸工場群や産業技術研究所群は、日本の産業科学をリードする貴重な教養観光資源をなし、観光協力工場や産業科学センターも多い。さらに、それらの間や田園地区には古い歴史と文化を語る多くの社寺が点在し、また公私の経営になるいくつものレジャーランドもみられる。こうした点からすれば、横浜は日本の都市観光の好例といえる。これらの主要観光資源を連ねて、観光バスや観光船が運行されている。

 桜木町駅から県庁へ向かう本町通り、海岸通りは旧関内の中心地区で、金融機関や商社の集まるビジネスセンターである。この中に県立歴史博物館(旧、横浜正金銀行本店本館(よこはましょうきんぎんこうほんてんほんかん)、国指定重要文化財)がある。県庁、横浜市開港記念会館(旧、横浜市公会堂)、横浜開港資料館(旧、イギリス総領事館、前庭が日米和親条約調印地)、シルクセンター(英一番館跡)などは開国・開港史跡の中心地区。大桟橋入口から山下公園付近にかけてはホテル・ニューグランド、マリンタワー、氷川丸(ひかわまる)などが並び、マリンタワーは港や市街地の好展望台となってきた。その内部地区に中華街、関内駅前に市役所と横浜公園(日本の洋式公園の第一号。横浜スタジアム)がある。中華街は丹青極彩色の建築美を誇る中華料理店をはじめ、中国人経営の各種の商店が並んでいる。堀川を南へ渡ると元町商店街で、山手丘陵に住む外国人の買い物町としておこり、東京をはじめ広く買い物客を集めている。山手丘陵には、外国人住宅、教会、ミッション・スクール、外国人墓地や港の見える丘公園、県立神奈川近代文学館、大仏次郎(おさらぎじろう)記念館、これに続いて根岸競馬場跡(根岸森林公園)、本牧台の下の海岸地区(もと船員向けの歓楽地区、第二次世界大戦後は米軍人住宅地区)、ついで三渓園(さんけいえん)がある。関内駅から続く伊勢佐木町通りはショッピングと食事、娯楽の繁華街である。

 桜木町駅北西の紅葉(もみじ)ヶ丘には県立図書館、県立音楽堂、青少年センター、北に続く掃部山(かもんやま)には開港の推進者井伊大老の銅像、野毛山(のげやま)には市立図書館、動物園などがある。

 横浜駅西口一帯は買い物、食事どころ。これに続く地区は旧神奈川宿場町で、かつて東海道随一の景勝の宿場とうたわれた所である。開港前の1859年(安政6)に海岸防備のために築かれた(1960年完成)神奈川砲台が残され、開港当時アメリカ、イギリス、フランス、オランダの領事館にあてられた諸寺院が並ぶ。北東の生麦(なまむぎ)駅(京浜急行)の近くに生麦事件の碑、さらに北東の鶴見には総持寺(曹洞(そうとう)宗大本山)がある。

 市の南部、金沢文庫駅(京浜急行)近くに称名寺、金沢文庫、金沢八景駅近くに金沢八景、海の公園、八景島シーパラダイス、野島公園がある。これらと鷹取(たかとり)山(横須賀市)や円海山と結ぶ観光コースもよい。そのほか、青葉区北西部から町田市(東京都)にまたがって、「こどもの国」、港北区には横浜アリーナ、横浜国際総合競技場、旭区に「よこはま動物園ズーラシア」がある。

 市内の文化財は、金沢の称名寺と本牧の三渓園に集中しているといってよい。称名寺の境内(内界)は国指定史跡で、国宝の北条実時(さねとき)像(絹本著色)をはじめ絵画4点、および文選集注(もんぜんしゅうちゅう)をはじめ、彫刻、工芸、書跡などあわせて国指定重要文化財二十数件を蔵する。三渓園には、臨春閣(りんしゅんかく)をはじめ月華殿(げっかでん)、春草廬(しゅんそうろ)、天授院(てんじゅいん)、旧燈明寺三重塔、旧東慶寺仏殿、旧矢箆原(やのはら)家住宅など10件が重要文化財で、付属具にも名品が多い。三渓園の創設者、実業家の原三渓(富太郎。1868―1939)はまた岡倉天心以下近代芸術家(おもに画壇人)を援助、育成したことで知られる。ほかに重要文化財は、総持寺(鶴見区)、証菩提寺(栄区)、真福寺(しんぷくじ)(青葉区)、西方寺(港北区)、弘明寺(南区)、東漸寺(とうぜんじ)(磯子区)などに所蔵され、関家住宅(都筑区)も重要文化財で、三殿台遺跡、大塚・歳勝土遺跡は国指定史跡。

 日本第二の大都市で都市化地域の広い横浜にも、民俗芸能は受け継がれ、市内の大半の町では囃子獅子舞(はやしししまい)が演ぜられ、県の無形民俗文化財である本牧神社のお馬流しをはじめ、各地の社寺の祭礼に奉納される神楽(かぐら)、神事、踊りなどには貴重な民俗芸能が少なくない。年中行事には、弘明寺の火渡り(現在は中止)や大鷲(おおとり)神社(南区真金町)の酉の市(とりのいち)のような古例があるが、みなと祭り、国際仮装行列、横浜開港記念バザー(5月、横浜公園)、関帝廟(かんていびょう)祭礼(旧暦6月24日、中華街)、横浜スパークリングトワイライト(7月~9月、山下公園)、双十節(そうじゅうせつ)(10月、中華街)など国際港都ムードを醸し出すものが少なくない。

 21世紀を迎えて「よこはま21世紀プラン」に基づき、「みなとみらい21」地区や港北ニュータウン地区などの都市拠点の整備が進められた。「みなとみらい21」は、横浜駅と桜木町駅間の臨海部を整備し新しい街をつくる事業である。埋立地76ヘクタールを含む186ヘクタールの区域に、2010年までに就業人口19万人、居住人口1万人の国際文化の街をつくりだす計画のもと進められてきたが、2018年時点で就業人口は約10万7000人にとどまった。1989年までに日本丸メモリアルパークに続き、横浜市美術館、横浜マリタイムミュージアム(現、横浜みなと博物館)が開館した。ほかに1991年に国際会議場のパシフィコ横浜、1993年に75階295メートルの日本一高いオフィスビルの横浜ランドマークタワーが完成した。また1989年には市政100周年、開港130周年を記念して、横浜博覧会が開かれた。同年、本牧ふ頭先に横浜ベイブリッジが完成し、また1999年には「よこはまコスモワールド」が開園、新名所となっている。

[浅香幸雄]

『横浜市立大学経済研究所編・刊『横浜経済文化事典』(1958)』『『横浜市史』37冊(1958~1982・横浜市)』『横浜市編『横浜市史稿』全11巻・複刻版(1985~1986・臨川書店)』『『横浜市政概要』(1986・横浜市)』『『横浜の歴史』(1987・横浜市)』『『横浜市史Ⅱ』通史編1~3巻、資料編1~8巻、全16冊(1993~2004・横浜市)』


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