楠根村(読み)くすねむら

日本歴史地名大系 「楠根村」の解説

楠根村
くすねむら

[現在地名]青谷町楠根

紙屋かみや村の南、勝部かちべ谷の奥部に位置する。南は澄水すんず村。枝郷に山根やまねがある(因幡志)。拝領高は一一五石余、本免は七ツ。藪役銀三匁六分が課せられていた(藩史)。「因幡志」では家数四三。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳によると生高一二八石余、竈数四五。山根村河原かわら村で漉いていた御用紙の原料となる楮の産地で、年貢の一部は楮請米として翌年五月までの延納が認められていた。元文元年(一七三六)には年貢のうち三六石余が翌五月納であったが、楮請米はのち停止された。しかし八葉寺はつしようじ村などと同様に、その後一部年貢の延納(翌一月納)は認められ、安永六年(一七七七)・同九年には同村など五ヵ村とともにこの措置の延長を願出て認められている。

楠根村
くすねむら

[現在地名]阿南市楠根町

那賀なか川を挟んで吉井よしい村の北に位置する。天文三年(一五三四)京都を追放された足利義冬は「淡州しつきの浦」(現兵庫県津名町)を経由し、細川讃岐守の迎えで平島ひらじま(現那賀川町)に移り、平島一一ヵ村のほかに楠根など三ヵ村を与えられた(阿波平島家記録)。天正年間(一五七三―九二)織田信長から紀州広浦ひろうら(現和歌山県かつらぎ町)を追われた畠山石見守之照は平島に牢居していたが、櫛淵くしぶち(現小松島市)城主秋元氏と不和になり当村に引籠ったという(細川家記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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