楊心流(読み)ヨウシンリュウ

デジタル大辞泉 「楊心流」の意味・読み・例文・類語

ようしん‐りゅう〔ヤウシンリウ〕【×楊心流/揚心流】

柔術流派の一。江戸初期、秋山四郎兵衛の創始という。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「楊心流」の意味・わかりやすい解説

楊心流
ようしんりゅう

近世柔術の一主流。北九州を中心に展開し、多くの分派を生じたため、その伝承も錯綜(さくそう)しているが、初祖(開祖)を秋山四郎兵衛(あきやましろべえ)、二祖(中興)を大江千兵衛(おおえせんべえ)とするもので、中国医術の胴釈法(どうしゃくほう)(活殺法)を導入して、その奥儀または上段としたのが特色である。秋山の伝記は明らかではなく、生没年も不詳、名も則重・義昌・義直など。一説には豊後(ぶんご)高田の出身、また平戸の人といい、松平安芸守(あきのかみ)の家臣などと区々である。所伝では長崎に出て小児科の医術を学び、さらに中国に渡って修業中、博転(はくてん)という者に拳法(けんぽう)3本、活殺法28種の伝授を受け、帰国後太宰府(だざいふ)天満宮に祈願して、くふうを重ね、ある大雪の朝、神前の柳樹に1本の枝折れもないのを見て感悟し、303手を創案して一流をたて楊心流と称したという。二祖の大江千兵衛は仙兵衛、専兵衛とも書き、名は義時、肥前諫早(いさはや)の人とも、毛利(もうり)家の士ともいう。長崎に出て、魏(ぎ)の曹操(そうそう)の臣武管が始めたという活殺二法を学んで、秋山の伝に中段死活)・上段(当(あて))の技を付加して教授体系を整備し、胴釈の秘巻をもって印可の証とした。

 大江の名声が高まるとともに、その門に遊ぶ者も多かったが、次にあげるような俊才を輩出して、その流末はやがて全国各地に展開した。(1)大江宇兵衛義英(うへえよしひで)―千兵衛の子、その門人前田柳閑斎久俊(まえだりゅうかんさいひさとし)は江戸へ出て、野沢源太左衛門清位(のざわげんたざえもんきよつら)(秀湖(しゅうこ))を出して有名となり、松宮観山(まつみやかんざん)の息左司馬俊英(さじまとしひで)(柳条)が継承し、流末は土佐藩・高松藩に。(2)武光柳風軒信重(たけみつりゅうふうけんのぶしげ)―日向(ひゅうが)の人、江戸で活躍。(3)馬場清兵衛義治(せいべえよしはる)―流末は、会津藩に。(4)中嶋坪右衛門義利(つぼえもんよしとし)―同じく長州藩に。(5)羽野新九郎(はのしんくろう)宗命―熊本系の祖。(6)三浦(みうら)次郎兵衛永政(ながまさ)―門下に河野巣安(こうのそうあん)入道弘昌(ひろまさ)(中津藩)、田坂(たさか)十郎兵衛延正(のぶまさ)(杵築(きつき)藩)・手嶋観柳(てじまかんりゅう)実宣(さねのぶ)らがいる。観柳の門人で日出(ひじ)の人、阿部(あべ)観柳武貞(たけさだ)は大坂で道場を開き、ついで甥(おい)の江上司馬之介武経(えがみしばのすけたけつね)は江戸へ出て楊心流の名を高めた。江上の門人、戸塚彦右衛門英澄(ひでずみ)は戸塚派を開き、その子彦介英俊(ひこすけひでとし)は講武所・警視庁で活躍した。

[渡邉一郎]

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