楊弓(読み)ようきゅう

精選版 日本国語大辞典 「楊弓」の意味・読み・例文・類語

よう‐きゅう ヤウ‥【楊弓】

〘名〙 (もと楊柳の枝で作ったところからという) 遊戯に用いる二尺八寸(約八五センチメートル)ほどの小さな弓。九寸(約二七センチメートル)ほどの矢をつがえ、すわって射る。多くは継ぎ弓で、的の距離は七間半(約一三・五メートル)を定式とした。
庭訓往来(1394‐1428頃)「楊弓、雀小弓勝負、笠懸小串之会、草鹿円物之遊」

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「楊弓」の意味・読み・例文・類語

よう‐きゅう〔ヤウ‐〕【×楊弓】

遊戯用の小さな弓。約85センチの弓に約27センチの矢をつがえ、座って射る。江戸時代から明治かけ民間で流行した。もと楊柳ようりゅうで作られたのでこの名がある。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「楊弓」の意味・わかりやすい解説

楊弓
ようきゅう

長さ2尺8寸(約85センチメートル)ほどの遊戯用の小弓。楊弓の呼称は、古くは楊柳(やなぎ)でつくっていたからであり、またスズメを射ったこともあるため、雀弓(すずめゆみ)(雀小弓)ともよばれた。唐の玄宗が楊貴妃とともに楊弓を楽しんだという故事からも、日本には中国から渡来したものと思われる。約9寸(27センチメートル)の矢を、直径3寸(約9センチメートル)ほどの的(まと)に向けて、7間半(約13.5メートル)離れて座ったまま射る。平安時代に小児や女房の遊び道具として盛んになり、室町時代には公家(くげ)の遊戯として、また七夕(たなばた)の行事として行われた。江戸時代になると、広く民間に伝わり競技会も開かれた。寛政(かんせい)(1789~1801)のころから寺社境内盛り場楊弓場(ようきゅうば)が出現した。楊弓場は主として京坂での呼び名で、江戸では矢場(やば)といった。金紙ばりの1寸的、銀紙ばりの2寸的などを使い、賭的(かけまと)の一種であったが、賭博(とばく)としては発達しなかった。矢場はむしろ矢取女という名の私娼(ししょう)の表看板として意味が深い。

[稲垣史生]


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「楊弓」の意味・わかりやすい解説

楊弓
ようきゅう

楊 (やなぎ) 製の小弓で的を射る遊戯。弓の長さ2尺8寸 (約 85cm) ,白鳥の羽をつけた矢は9寸 (約 27cm) ,的の距離7間半 (約 13.5m) で,いろいろな作法を伴っていた。楊貴妃が未央宮の楊でつくり芙容で矢をつくって玄宗皇帝と遊んだのがその起源といわれる。古く中国から伝来し,室町時代には,鞠 (まり) ,楽,郢 (えい) 曲 (俗曲) ,和漢五十音,和歌,七盃飲とともに宮中の七夕の七遊 (ななあそび) の一つであったが,それが民間に伝わって日常の遊びとなり,江戸時代に大流行をみた。寛永年間 (1624~44) 頃から盛んになり,元禄年間 (1688~1704) には神社仏閣の境内や盛り場などに矢場 (やば) と呼ばれる楊弓場ができ,10矢4文などの料金で的や糸で吊った景品を射させるようになって従来の作法もまったく無視されるようになった。のち矢場は矢取女 (矢拾女,矢場女) を雇って接客させるようになり,次第に私娼窟化したが,明治末期にはほとんど姿を消した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「楊弓」の意味・わかりやすい解説

楊弓【ようきゅう】

遊戯用の小弓。ヤナギ(楊・柳)製の85cmほどの弓で,ハクチョウの羽をつけた矢をつがえ,約13.5mの距離にある的を射る。この遊戯は唐の玄宗皇帝が楊貴妃とともに楽しんだとも伝えられ,古く中国から渡来し,室町時代には宮中の七夕七遊(ななあそび)の一つとしていろいろな作法を伴っていた。江戸時代に入ると民間でも賭(かけ)付きで行われるようになり,元禄期には楊弓場が出現した。
→関連項目射的

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

今日のキーワード

黄砂

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android