森田恒友(読み)もりたつねとも

百科事典マイペディア 「森田恒友」の意味・わかりやすい解説

森田恒友【もりたつねとも】

洋画家埼玉県生れ。上京して小山正太郎の不同舎に入り,のち東京美術学校に学んだ。1914年―1915年渡仏し,帰国後セザンヌの影響濃い作品を二科展院展出品,1922年木村荘八,小杉未醒らと春陽会設立。その後,東洋的情感をこめた水墨乾墨素描主力を注いだ。
→関連項目小川芋銭山本鼎

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「森田恒友」の意味・わかりやすい解説

森田恒友
もりたつねとも

[生]1881.4.9. 埼玉,大里
[没]1933.4.8. 千葉
画家小山正太郎,中村不折に師事したのち,1906年東京美術学校西洋画科卒業。 07年美術雑誌方寸』を石井柏亭,山本鼎らと創刊。 14~15年フランスに留学。 15年二科会会員,再興日本美術院西洋画部同人。 22年春陽会設立に参与し,同会会員として活躍。作風は初めロマン的傾向を示し,やがて外光派写実移り,渡仏してセザンヌの影響を受けたが,次第に素朴な田園風景を主題として詩情豊かな作品を描いた。また晩年には水墨画を主とする新しい文人画風を築いた。主要作品『婦人像』 (1914,東京国立近代美術館) ,『フランス風景』 (14~15,同) ,『鳰』 (20,同) ,『関西ところどころ』 (22,同) ,『画冊 12面』 (22,同) ,『春の池畔』 (30,同) 。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「森田恒友」の意味・わかりやすい解説

森田恒友
もりたつねとも
(1881―1933)

洋画家。埼玉県生まれ。1901年(明治34)画家を志して上京し、小山(こやま)正太郎の不同舎に学ぶ。06年東京美術学校西洋画科を卒業し、翌年山本鼎(かなえ)、石井柏亭(はくてい)らと美術雑誌『方寸』を創刊、この年第1回文展に出品する。また「パンの会」の創始に参加した。14年(大正3)から翌年にかけて渡欧してセザンヌの影響を受け、帰国後『城址(じょうし)』などを発表する。二科会会員、日本美術院洋画部同人となるが、やがて両方とも退会し、22年に同志とともに春陽会を創立した。29年(昭和4)帝国美術学校の創設に際し、洋画科主任教授となる。詩趣に富む水墨風景画で知られる。『恒友画談』そのほかの著書がある。

[小倉忠夫]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「森田恒友」の解説

森田恒友 もりた-つねとも

1881-1933 明治-昭和時代前期の洋画家。
明治14年4月9日生まれ。40年山本鼎(かなえ)らと雑誌「方寸」を創刊,翌年パンの会同人。大正3年渡仏,帰国後は日本美術院同人をへて11年春陽会を結成。水墨の田園風景画でも知られる。昭和4年帝国美術学校(現武蔵野美大)教授。昭和8年4月8日死去。53歳。埼玉県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。

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世界大百科事典(旧版)内の森田恒友の言及

【明治・大正時代美術】より

…文展を離れて闘うことになったこの青年画家たちが,京都画壇に与えた刺激は小さなものではなく,彼らの出現によって栖鳳以降にきざしていた京都画壇の近代化への脱皮をうながすことになった。 20年の第7回院展後,日本画部との感情的対立から日本美術院洋画部を解散した小杉放庵,森田恒友(つねとも)(1881‐1933),山本鼎(かなえ)(1882‐1946),倉田白羊(1881‐1938),足立源一郎(1889‐1973)らは,梅原竜三郎を加えて,22年春陽会を結成する。ほかに客員として,岸田劉生,木村荘八,中川一政,椿貞雄の草土社勢,院展系の石井鶴三,今関啓司,山崎省三,それに万鉄五郎が迎えられた。…

※「森田恒友」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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