梅ヶ谷藤太郎(読み)ウメガタニトウタロウ

デジタル大辞泉 「梅ヶ谷藤太郎」の意味・読み・例文・類語

うめがたに‐とうたろう〔‐トウタラウ〕【梅ヶ谷藤太郎】

力士
初代)[1845~1928]第15代横綱本名、小江藤太郎。筑前ちくぜんの人。出身地(福岡県朝倉市杷木志波はきしわの小字名、梅ヶ谷)から名をとった。→第14代横綱境川 →第16代横綱西ノ海
(2代)[1878~1927]第20代横綱。本名、小江音松。旧姓、押田。富山県出身。初代の養子となって入門常陸山ひたちやまと対抗し、大相撲の人気を高めた。→第19代横綱常陸山 →第21代横綱若島

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改訂新版 世界大百科事典 「梅ヶ谷藤太郎」の意味・わかりやすい解説

梅ヶ谷藤太郎 (うめがたにとうたろう)

力士。(1)初代(1845-1928・弘化2-昭和3) 15代横綱。福岡県朝倉郡杷木町(現,朝倉市)梅ヶ谷出身。本名小江藤太郎。大阪の大関となった1870年に上京,初め本中に付け出されたが,逆境に発奮し74年入幕。以来5敗のみで84年の天覧相撲に際し横綱免許。176cm,124kgの強豪で,維新後不況の角界復興の端緒をつくった。その人情家ぶりは落語や芝居の《幸助餅》の報恩美談になって現在も上演されている。引退後は取締雷(いかずち)権太夫となり,国技館建設に功績があり,隠居後も協会は給金を贈った。

(2)2代(1878-1927・明治11-昭和2) 20代横綱。富山市水橋地区出身。本名押田音松。初代の養子になり入門。初め梅ノ谷と名のり,1898年入幕。1900年大関になり,好敵手常陸山谷右衛門と人気を二分した。02年師の梅ヶ谷に改名。03年常陸山といっしょに横綱免許,25歳の免許は当時の若年記録。168cm,158kgの堂々たる太鼓腹と腰は臼のようであったが,技能相撲で左を差して寄る呼吸は天下一品,豪快な常陸山と好対照だった。引退後は義父から雷権太夫を譲られたが,27年巡業中に死去
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「梅ヶ谷藤太郎」の意味・わかりやすい解説

梅ヶ谷藤太郎
うめがたにとうたろう
(1845―1928)

15代横綱。筑前(ちくぜん)国上座(じょうざ)郡志波(しわ)村(現福岡県朝倉(あさくら)市)出身。初め大坂相撲に入り大関になったが、1870年(明治3)上京し玉垣(たまがき)部屋に入門。幕下から取り進み1874年入幕、1879年大関、1884年横綱免許。翌年41歳で引退し年寄雷権太夫(いかずちごんだゆう)を襲名した。身長176センチメートル、体重124キログラム。入幕後の黒星6、勝率95.1%は歴代横綱中第1位。明治維新後衰退した相撲界の再興に功績があり、協会取締として両国国技館の実現に尽力、一門から多くの名力士を出した。

 2代目梅ヶ谷(1878―1927)は富山市水橋(みずはし)出身。先代の養子となり入門、1898年(明治31)入幕、1903年(明治36)常陸山(ひたちやま)とともに横綱免許(20代目)を受け、両力士の対戦は全国的な熱狂をよんだ。身長168センチメートル、体重158キログラムの「あんこ型」で、勝率86%であった。1915年(大正4)引退し、先代雷部屋を相続した。

[池田雅雄]


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百科事典マイペディア 「梅ヶ谷藤太郎」の意味・わかりやすい解説

梅ヶ谷藤太郎【うめがたにとうたろう】

力士。初代〔1845-1928〕は本名小江藤太郎。福岡県の出身。1884年15代横綱。翌年引退し年寄雷(いかずち)権太夫を名乗る。1889年大日本相撲協会を創立して取締役となり,1909年旧両国国技館を建設するなど相撲界興隆に貢献。2代〔1878-1927〕は初代の養子。本名押田音松。富山市の出身。1903年常陸(ひたち)山谷右衛門とともに20代横綱となり,明治の相撲全盛期を築き,1915年引退した。

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