デジタル大辞泉
「桜井忠温」の意味・読み・例文・類語
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桜井忠温 (さくらいただよし)
生没年:1879-1965(明治12-昭和40)
陸軍軍人,作家。愛媛県生れ。1901年陸軍士官学校卒業。松山の歩兵第22連隊付少尉として日露戦争に出征,旅順で負傷。その体験を書いた《肉弾》(1906)は戦争文学の傑作として有名になり,欧米諸国でも翻訳出版された。24-30年陸軍省新聞班長,30年少将・予備役。《国防大事典》(1932)の監修のほか多数の著書があり,31年までの作品は《桜井忠温全集》全6巻に収録。
執筆者:大江 志乃夫
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桜井忠温
没年:昭和40.9.17(1965)
生年:明治12.6.11(1879)
明治後半から昭和期の陸軍軍人,軍事物作家。松山藩(愛媛県)藩士桜井信之の3男,兄天壇は文芸評論家,弟忠武は海軍機関中将。松山中学から明治33(1900)年陸士入学,中尉で日露戦争に出征,旅順第1回総攻撃で負傷し内地送還,『肉弾』を執筆し一躍有名となる。右手が不自由になったために副官や部隊付を勤めながら小篇を多数発表,大正13(1924)年陸軍省新聞班長となるが,その間田中義一の強い後援があったといわれる。昭和5(1930)年少将で現役を去り,以後執筆,絵画に専念,文才提督小笠原長生と並称される。作品に『銃後』『国防大事典』『伝記大日本史』『桜井忠温全集』など多数ある。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
桜井忠温【さくらいただよし】
陸軍軍人,小説家。愛媛県生れ。陸軍士官学校卒。松山中学では夏目漱石の指導も受けた。少尉として日露戦争に従軍,旅順攻略戦で負傷。その経験を描いた《肉弾》(1906年)によって文名を上げる。その後文才を買われて,陸軍省新聞班長。《銃後》《雑嚢》などの戦記物の執筆とともに,《国防大辞典》や《伝記日本史陸軍篇》などの編纂にもあたった。自伝《哀しきものの記録》。
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桜井忠温 さくらい-ただよし
1879-1965 明治-昭和時代の軍人,小説家。
明治12年6月11日生まれ。39年日露戦争で重傷を負った体験をかいた「肉弾」を発表し好評をえる。のち陸軍省新聞班長。少将で退役後も著述をつづけた。昭和40年9月17日死去。86歳。愛媛県出身。陸軍士官学校卒。筆名は落葉。作品に「銃後」「将軍乃木」など。
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桜井忠温
さくらいただよし
[生]1879.6.11. 松山
[没]1965.9.17. 松山
陸軍軍人,著述家。 1901年陸軍士官学校卒業。日露戦争に少尉として出征し,戦傷を負う。 26年陸軍省新聞班長。 30年少将で退役。日露戦争を舞台に著わした『肉弾』 (1906) は第2次世界大戦前の日本で広く読まれた。
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