日本大百科全書(ニッポニカ) 「桃川如燕」の意味・わかりやすい解説
桃川如燕
ももかわじょえん
講釈師。
[延広真治]
初代
(1835―98)本名杉浦要助。江戸・上野の寒松院の寺小姓より14歳で初代伊東燕国(えんこく)に入門、2代燕国などを経て、22歳で昼席の真打となる。桃川派をたて、桃川燕玉(えんぎょく)より1874年(明治7)如燕。85年『百猫伝(ひゃくびょうでん)』を刊行。これは2代松林伯円の『安政三組盃(あんせいみつぐみさかずき)』とともに講談速記本の先駆であった。伯円と並ぶ明治講談界の代表的存在で、しばしば御前講演を行い、流暢(りゅうちょう)な読み口で、『秋田騒動』『百猫伝』などを得意とした。あだ名を大入道という。
[延広真治]
2代
(1866―1929)本名斎藤嘉吉。父は落語家3代麗々亭柳橋(れいれいていりゅうきょう)(兄と弟がそれぞれ4代、5代の柳橋になった)。当初落語家を志し、昔々亭(せきせきてい)桃太郎。講談の3代一竜斎貞山(いちりゅうさいていざん)に入門、のち先代の門に転じ1898年(明治31)2代目を襲名。『義士伝』を読み続け、提灯(ちょうちん)の模様から「櫛形(くしがた)」の異名をとる。正義派会頭、講談組合頭取。東京・芝に桃桜亭を経営。なお、3代目は後の5代神田伯山が1949年(昭和24)に襲名。
[延広真治]