桂川甫周(読み)かつらがわほしゅう

精選版 日本国語大辞典 「桂川甫周」の意味・読み・例文・類語

かつらがわ‐ほしゅう【桂川甫周】

蘭医。江戸幕府の医官。
[一] 桂川家四代。国訓(くにのり)の子。名は国瑞(くにあきら)。号、月池。江戸の人。将軍徳川家斉の侍医。杉田玄白らとともに「解体新書」を翻訳。また、蘭書「魯西亜(ろしあし)」を抄訳したり、ロシアの様子を書いた「北槎聞略(ほくさぶんりゃく)」を著わす。宝暦元~文化六年(一七五一‐一八〇九
[二] 桂川家七代。名は国興。号、月池。江戸の人。安政五年(一八五八)、オランダ人ドゥーフらの作成した「ドゥーフハルマ和蘭字彙)」を出版。文政九~明治一四年(一八二六‐八一

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デジタル大辞泉 「桂川甫周」の意味・読み・例文・類語

かつらがわ‐ほしゅう〔かつらがはホシウ〕【桂川甫周】

[1751~1809]江戸後期の蘭医。桂川家4代目。名は国瑞くにあきら。号、月池。杉田玄白らと「解体新書」を翻訳。編著「魯西亜志」「北槎聞略ほくさぶんりゃく」など。
[1826~1881]江戸後期の蘭医。桂川家7代目。名は国興くにおき。「ドゥーフハルマ和蘭字彙オランダじい)」を出版。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「桂川甫周」の意味・わかりやすい解説

桂川甫周
かつらがわほしゅう

江戸時代の医家。桂川家では4代、7代が甫周を通称とする。

[末中哲夫]

4代

(1751―1809)江戸の生まれ。名は国瑞(くにあきら)、字(あざな)は公鑑、月池と号した。弟甫粲(ほさん)(森島中良(なから)、万象(まんぞう)亭)とともに才知にあふれ、歴史上著名な事績に関与した。1769年(明和6)には蘭学(らんがく)創始端緒となった『解体新書』の翻訳事業に最年少者として終始参加。また幕命を受けしばしばオランダ商館長らと対話し、1776年(安永5)にはツンベルク中川淳庵(じゅんあん)とともに訪れて対話、その英才ぶりがツンベルクの著『日本紀行』に紹介されている。1777年奥医師、1783年(天明3)法眼(ほうげん)。1793年(寛政5)大黒屋光太夫(幸太夫)がロシアから松前に送還されたとき、光太夫らの口述をまとめ『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』12巻を著し、そのほかに『魯西亜誌(ろしあし)』1巻を訳編、また『魯西亜略記』を編纂(へんさん)した。1794年幕府医学館教授、外科担当となり、顕微鏡を医学に初めて応用した。著作は『和蘭(おらんだ)薬選』『海上備要法』『万国図説』『地球全図』『漂民御覧記』など多方面にわたる。文化(ぶんか)6年6月21日没。墓所は神奈川県伊勢原(いせはら)市の上行(じょうぎょう)寺。

[末中哲夫]

7代

(1826―1881)江戸の生まれ。名は国興(くにおき)、幼名甫安、字は禎卿、月池と号した。1843年(天保14)胸部打撲疾患のおり、戸塚静海伊東玄朴(げんぼく)の洋方治療を受けた。1844年家督を相続。1846年(弘化3)将軍家慶(いえよし)の侍医。1847年西洋医学所教授となり、中村正直(まさなお)に蘭学を教授。1853年(嘉永6)法眼。1855~1858年(安政2~5)『和蘭字彙(じい)』10冊を刊行。1861年(文久1)再来日のシーボルトに面接。1863年成島柳北(なるしまりゅうほく)と英学研究に着手。1868年(明治1)奥医師を辞退して森島新悟と改名し、浅草に薬局を開いた。明治14年9月2日没。著作に『太平春詞』『随身巻子(かんす)』などがある。墓所は神奈川県伊勢原市の上行寺。

[末中哲夫]

『今泉源吉著『蘭学の家 桂川の人々 最終篇』(1969・篠崎書林)』


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朝日日本歴史人物事典 「桂川甫周」の解説

桂川甫周

没年:文化6.6.21(1809.8.2)
生年:宝暦4(1754)
江戸中期の蘭方医,地理学者。江戸築地の生まれ。生年を宝暦1(1751)年とする説もある。官医桂川家の第4代。父国訓の長男。幼名は小吉,諱は国瑞,通称は甫謙,甫安から甫周,号は月池,公鑑,無碣庵,雷普,震庵,世民など。父および前野良沢に蘭学を学び,明和5(1768)年御目見,翌年奥医師。天明3(1783)年法眼。美男子ゆえに大奥問題で一時格下げになって同6年寄合医師,寛政5(1793)年再び奥医師に就任。翌年幕府医学館教授となり外科を教えた。 若くして杉田玄白らの『解体新書』訳述事業に当初から参加,協力した。安永1(1772)年から江戸参府のオランダ商館長一行と毎回対談し,海外知識をひろめた。同5年に江戸へ来たオランダ商館付医師ツンベリーとの親交により,リンネの植物分類方式による標本作成法を学んだ。同じくティチングとも親交を持ち,朽木昌綱,島津重豪,中川淳庵らと共に知識の交換をした。医薬書としては『和蘭薬撰』『海上備要方』『和蘭袖珍方』などを著訳,宇田川玄随にゴルテルの内科書を託して『西説内科撰要』を訳させた。 世界地理にも造詣が深く,『新製万国地球図説』『地球全図』を訳述。寛政4年ロシア遣日使節ラクスマン一行が送還してきた伊勢漂流民の大黒屋光太夫らの将軍引見の際,列席して『漂民御覧之記』を著し,さらに尋問,聞書してロシア事情の紹介書『北槎聞略』を同6年に編纂。このほか『魯西亜志』を訳したり,『魯西亜封域図』を作成するなど,幕府の直面した北方問題に寄与した。大槻玄沢と共に江戸蘭学界の中心的存在であり,世話役でもあった。桂川邸は当代文化人のサロンになっており,宇田川玄随や吉田長淑などのように個人的に教授した蘭学者も決して少なくない。弟森島中良(桂川甫粲)の著訳にも甫周の影響がみられる。墓は江戸二本榎の上行寺,のち伊勢原市に移転。<参考文献>今泉源吉『蘭学の家 桂川の人々』

(吉田厚子)

桂川甫周

没年:明治14.9.25(1881)
生年:文政9(1826)
幕末明治期の蘭方医,江戸幕府将軍家侍医桂川家第7代。名は国興,通称は甫安のち甫周。月池と号した。桂川甫賢の長男として江戸に生まれる。21歳で奥医師,次いで法眼に叙せられる。幕末の奥医師の生活ぶりや上品で風流な人柄は,娘今泉みねの『名ごりの夢』に詳しい。最大の功績は,幕府の許可を得て『ドゥーフ・ハルマ』を翻刻し,見出し語約5万の蘭和辞典『和蘭字彙』を刊行(1855,58)したことである。弟甫策を中心に一家総出の編纂事業であったが,辞書が備わって間もなく江戸幕府は崩壊し,オランダ語の時代も終わりを告げる。維新後は隠居して,質素な生活に甘んじながらも『東京医事新聞』を発刊するなど,医事衛生の普及に努めた。<参考文献>今泉みね『名ごりの夢』

(鳥井裕美子)

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百科事典マイペディア 「桂川甫周」の意味・わかりやすい解説

桂川甫周【かつらがわほしゅう】

江戸後期の医学者,蘭学者。名は国瑞(くにあきら),号は月池(げっち)。家は代々幕府の医官で,その4世。《解体新書》の訳業に参加,また顕微鏡を日本で最初に医学に応用した。多くの医薬関係訳書を著したほか,《魯西亜志(ろしあし)》《北槎聞略(ほくさぶんりゃく)》など海外事情に関する訳書,著書もある。なお蘭日辞典の《和蘭字彙(おらんだじい)》を刊行した7世の国興(くにおき)も甫周と称した。
→関連項目朽木昌綱工藤平助森羅万象ツンベリードゥーフ中村正直林子平

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改訂新版 世界大百科事典 「桂川甫周」の意味・わかりやすい解説

桂川甫周 (かつらがわほしゅう)
生没年:1751-1809(宝暦1-文化6)

江戸後期の蘭方医。江戸出身。名は国瑞(くにあきら),字は公鑑,月池と号した。幕府の医官桂川家4代目で,同家代々の中でも最も傑出した一人であった。若くして《解体新書》翻訳グループの一員に加わり,蘭館医ツンベリーらオランダ人と学術上の交渉をもち,江戸蘭学の後継者を育成,とくに西洋本草学に秀で,また顕微鏡を日本で最初に医学に応用した。《和蘭薬選》《顕微鏡用法》《海上備要方》等の医薬関係訳書のほか,漂流民大黒屋光太夫らの陳述をまとめた《漂民御覧之記》《北槎聞略(ほくさぶんりやく)》等と,それに関連した《魯西亜志》等の海外事情関係訳書がある。なお,桂川家7代目国興(くにおき)(1826-81・文政9-明治14)も甫周を名乗り,蘭和辞書《和蘭字彙》(1855-59・安政2-6)の刊行で知られる。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「桂川甫周」の解説

桂川甫周
かつらがわほしゅう

1751~1809.6.21

江戸後期の蘭方外科医。桂川甫三(ほさん)の子で桂川家4代目。名は国瑞(くにあきら),字は公鑑,号は月池。江戸生れ。天性の鋭敏さとすぐれた才能をうたわれ,1769年(明和6)19歳で奥医師,94年(寛政6)医学館教授。1775年(安永4)来日の植物学者ツンベリと親交を結ぶ。前野良沢・杉田玄白らとともに「解体新書」の翻訳に参画。世界地理にも深い関心をもち,92年に送還された大黒屋光太夫の陳述から「北槎聞略(ほくさぶんりゃく)」を著し,「魯西亜(ロシア)志」を訳述。弟子に吉田長淑。実弟は森島中良(ちゅうりょう)。医学館多紀元孝の長男道訓を養子に迎えた。顕微鏡をはじめて医学に応用し「顕微鏡用法」を著す。ほかに翻訳「地球全図」「和蘭薬選」。なお「和蘭字彙」の編著者である桂川家7代国興(くにおき)も甫周を称した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「桂川甫周」の意味・わかりやすい解説

桂川甫周
かつらがわほしゅう

[生]宝暦1(1751).江戸
[没]文化6(1809).6.21. 江戸
江戸時代後期の蘭方医で幕府の医官。桂川第4代。名は国瑞,号は月池および世氏。『解体新書』の翻訳に参加。明和9 (1772) 年より江戸参府のオランダ人との対談を許され,C.トゥーンベリ,チチングの親交を得た。また,ロシアに強い関心を示し,大黒屋光太夫に質問して『北瑳聞略』を著わし,オランダ原本の『魯西亜誌』を訳して幕府の北辺政策に役立てた。享和2 (1802) 年,顕微鏡の使用法を日本で初めて述べ,『顕微鏡用法』を著わした。

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旺文社日本史事典 三訂版 「桂川甫周」の解説

桂川甫周
かつらがわほしゅう

1751〜1809
江戸後期の蘭学者・医者
江戸の人。杉田玄白の『解体新書』の翻訳に協力。幕府の侍医,のち幕府医学館教授となった。徳川家斉の命により伊勢の漂流民大黒屋光太夫からロシアの風俗・制度を聞き『北槎聞略 (ほくさぶんりやく) 』を著した。

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世界大百科事典(旧版)内の桂川甫周の言及

【ドゥーフ・ハルマ】より

…稲村三伯によって作成された《ハルマ和解(わげ)》を《江戸ハルマ》と称したのに対して,本書は《道訳ハルマ》とも《長崎ハルマ》とも呼ばれる。のち幕府の医官桂川甫周によって改訂され,《和蘭字彙(オランダじい)》として,前編は1855年(安政2),後編は58年に完成,江戸で出版された。【片桐 一男】。…

【北槎聞略】より

…全12巻。著者は桂川甫周。1794年(寛政6)成稿。…

※「桂川甫周」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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