新撰 芸能人物事典 明治~平成 「桂 文楽(8代目)」の解説
桂 文楽(8代目)
カツラ ブンラク
- 職業
- 落語家
- 肩書
- 落語協会会長
- 本名
- 並河 益義
- 別名
- 前名=桂 小莚,翁家 さん生,翁家 馬之助
- 生年月日
- 明治25年 11月3日
- 出生地
- 青森県 北津軽郡五所川原町(五所川原市)
- 出身地
- 東京市 下谷区根岸町(東京都 台東区)
- 学歴
- 根岸尋常小中退
- 経歴
- 生家は常陸宍戸藩主・松平家の旧臣で、父の実家である小原家は第15代将軍・徳川慶喜の御典医を務める家柄であった。税務官員であった父の任地・青森県五所川原で生まれるが、父の転勤にともない上京。幼少時から話が好きで“おしゃべり小僧”といわれた。明治35年父の病死により小学校を3年で中退し、横浜の薄荷問屋・多勢屋に奉公に出たが、しばらくして飛び出し、以降は袋物屋、玩具問屋、染物屋と奉公先を変えた。41年義父の紹介で初代桂小南の門に入り、桂小莚を名乗る。一方で、近所に住んでいた立花家左近(3代目三遊亭円馬)に厳しく稽古をつけてもらい、落語家としての力量を磨いた。43年二ツ目。44年三遊分派を興すも振るわなかった師・小南が東京の落語界から去ると、講談師の小金井芦洲率いる一座の地方巡業に参加。芦洲が逃亡し一座が解散した後は名古屋、京都、神戸、満州を転々とした。大正5年帰京して7代目翁家さん馬(8代目桂文治)に入門し、翁家さん生に改名。6年落語睦会に属して5代目柳亭左楽の門に転じ、翁家馬之助で真打ちに昇進。9年桂文楽を襲名。このとき自身は6代目文楽であったが、“末広がりで縁起のいい”ということで以後8代目を自称した。昭和13年落語協会に参加。早くからラジオにも出演し、28年よりラジオ東京の専属となる。得意の演目は「素人鰻」「富久」「明烏」「寝床」「悋気の火の玉」「船徳」「厩火事」「大仏餅」などで、数は多くなかったが、一つの噺を練りに練り上げた緻密にしては正確な語り口は至芸といわれ、5代目古今亭志ん生、6代目三遊亭円生らと並び“昭和の名人”と称された。29年「素人鰻」で芸術祭賞を受賞。30年落語協会会長に就任。32年親友・志ん生に会長職を譲るが、38年脳溢血で体調を崩した志ん生に代わって会長に再任し、40年まで務めた。この間、36年落語家として初の紫綬褒章を受章。46年第42回落語研究会で「大仏餅」を口演中、神谷幸右衛門の名が出ず絶句、「もう一度勉強しなおしてまいります」の言葉を残して高座を降り、以来落語を演じることはなかった。弟子に6代目三升家小勝、7代目橘家円蔵、9代目桂文楽、6代目柳亭左楽、3代目柳家小満んらがおり、5代目柳家小さんも預かり弟子であった。自伝「あばらかべっそん」がある。上野の黒門町に住み、“黒門町(の師匠)”とあだ名された。
- 受賞
- 紫綬褒章〔昭和36年〕,勲四等瑞宝章〔昭和41年〕 芸術祭賞〔昭和29年〕「素人鰻」,芸術祭賞〔昭和41年〕「富久」
- 没年月日
- 昭和46年 12月12日 (1971年)
- 伝記
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出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報