根来衆(読み)ねごろしゅう

精選版 日本国語大辞典 「根来衆」の意味・読み・例文・類語

ねごろ‐しゅう【根来衆】

大乗院寺社雑事記‐明応二年(1493)閏四月一九日「斎藤自紀州根比衆以下数千人引率打入之由申」

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デジタル大辞泉 「根来衆」の意味・読み・例文・類語

ねごろ‐しゅう【根来衆】

根来寺僧兵南北朝時代以後、特に戦国時代鉄砲で武装して強大な勢力をもった。石山合戦石山本願寺に味方して織田信長軍と戦ったが、のち、豊臣秀吉に滅ぼされた。根来寺衆根来法師

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百科事典マイペディア 「根来衆」の意味・わかりやすい解説

根来衆【ねごろしゅう】

紀伊国根来寺僧兵集団。同寺は南北朝時代以降,紀伊和泉河内などの土豪・国人と結んでその子弟を入寺させ,最盛時には2700ともいわれる多くの子院を建立。本山高野山と激しく抗争していた根来寺では,こうした子院を中心に衆徒(根来衆)の武装化が進んだ。根来衆は8000〜1万人ともいわれ,教団組織のなかでは行人方に属した。戦国時代,武術に優れた彼らは南近畿の武将諸侯傭兵(ようへい)ともなり,また,いち早く鉄砲を導入。石山合戦ではときに本願寺,ときに織田信長と結んだ。その後雑賀(さいか)衆とともに豊臣秀吉に抗し,1585年秀吉の紀州攻めで根来寺を焼かれて平定される。江戸時代鉄砲技術などを買われて諸大名に仕えた者は根来組などとよばれた。

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改訂新版 世界大百科事典 「根来衆」の意味・わかりやすい解説

根来衆 (ねごろしゅう)

根来寺の僧兵集団。教団組織では行人衆をいう。その行動はとくに戦国時代に活発で,鉄砲を使用したことで知られる。戦国諸侯は〈金銭を以て彼らをやとい入れ〉,その数は〈つねに二万余人〉が準備されていた。文明期(1469-87)に和泉へ進出をはじめ,細川三好と争い,永禄年間(1558-70)には泉南を支配した。粉河寺や高野山と領有権をめぐる争いをくり返して寺領拡大を図った。集団の指揮者は旗頭,大将とよばれ,泉職坊快厳,杉坊照算,岩室坊勢誉などが知られる。彼らは泉南,紀北の土豪と関係が深く,土豪たちで行人衆になったり,寺領代官を務めたり,寺坊持ちとなる者が多く,そのことが寺領拡大をいっそう容易にした。和泉・紀北は一向一揆勢力が強いが,表面的にはこれと争うことはなく共存した。しかし石山本願寺一揆では,情勢により織田方へつき,門徒の本願寺参詣を妨害するなどのけん制策をとっている。小牧・長久手の戦で徳川家康と盟約を結び豊臣秀吉の背後をついたが,1585年(天正13)豊臣秀吉の紀州征伐によって全山焼失し平定された。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「根来衆」の解説

根来衆
ねごろしゅう

紀伊国の根来寺(大伝法院)の僧兵を中心とする集団。大伝法院は1288年(正応元)金剛峰寺から分離したが,金剛峰寺との抗争をくり返すなかで武装化を進め,戦国期には紀伊北部・和泉南部の地侍層や土豪層との関係を深め,鉄砲を導入して強力な組織を形成した。1585年(天正13)雑賀(さいか)衆とともに豊臣秀吉に抗して壊滅状態になったが,その後各地の大名に仕えた者は根来組とよばれた。

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世界大百科事典(旧版)内の根来衆の言及

【紀伊国】より

…1460年(寛正1),細川勝元に支援された政長によって義就が守護を罷免されて以降,畠山氏は両派に分裂し,紀伊国は河内・大和国とともに激しい抗争の舞台となり,これが応仁・文明の乱に発展した。50年間にもおよぶ畠山氏の抗争は16世紀初頭に終息するが,この間に勢力をたくわえてきたのが根来衆と雑賀(さいか)衆である。根来寺の急速な発展を支えたのは,紀北・泉南・南河内の新興の土豪地侍層で,彼らは山内に子院をつぎつぎと建立し,高利貸や荘園の代官請などを通じて,紀北・泉州地域の荘園を蚕食した。…

※「根来衆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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