栃木(読み)トチギ

デジタル大辞泉 「栃木」の意味・読み・例文・類語

とちぎ【栃木】

関東地方北部の県。もとの下野しもつけ国に相当。県庁所在地宇都宮うつのみや。人口200.7万(2010)。
栃木県南部の市。もと日光例幣使街道の宿場町、市場町として発達。明治4~17年(1871~1884)県庁所在地であった。平成22年(2010)に大平町・藤岡町・都賀つが町と、翌年西方町と合併。人口14.7万(2012)。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「栃木」の意味・読み・例文・類語

とちぎ【栃木】

[一] 栃木県南部の地名。中世に皆川氏が築いた栃木城は江戸初期に廃城となり、以後、巴波(うずま)川の河川交通の終点にある市場町、日光例幣使街道の宿場町として栄えた。明治四年(一八七一)橡木(とちぎ)県の成立以後同一七年まで県庁所在地として発展。巴波川沿いを中心に蔵造りの民家が残る。履物製造のほか、食品・機械工業などが行なわれる。昭和一二年(一九三七)市制。
[二] 「とちぎけん(栃木県)」の略。
[三] (橡木) 明治四年(一八七一)の廃藩置県により成立した県。下野国の日光・壬生・吹上・佐野・足利の五県と上野国の館林県とを合わせて設置された。同六年に宇都宮県を合併。同九年に旧上野国の三郡を群馬県に移管した。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「栃木」の意味・わかりやすい解説

栃木[県] (とちぎ)

基本情報
面積=6408.28km2(全国20位) 
人口(2010)=200万7683人(全国20位) 
人口密度(2010)=313.3人/km2(全国22位) 
市町村(2011.10)=14市12町0村 
県庁所在地=宇都宮市(人口=51万1739人) 
県花=ヤシオツツジ 
県木トチノキ 
県鳥=オオルリ

関東地方北部の中央に位置する内陸県。東は茨城県,南は埼玉県,西は群馬県,北は福島県に接する。

県域はかつての下野(しもつけ)国全域にあたる。江戸末期には宇都宮藩をはじめ壬生(みぶ),吹上,佐野,足利,高徳(宇都宮支藩),烏山,黒羽,大田原,茂木(もてぎ),喜連川(きつれがわ)の諸藩や他藩の飛地のほか,全石高の1/3以上を占める旗本領や,日光などの天領,寺社領などが入りくんでいた。1868年(明治1)旧天領を管轄する真岡(もおか)県が置かれたが,翌年設けられた日光県がこれを併合,さらに70年には下総曾我野へ移された高徳藩,次いで喜連川藩も併合した。71年廃藩置県によって藩はそれぞれ県となったが,同年日光,壬生,吹上,佐野,足利5県は館林県(上野)とともに栃木県に,宇都宮,烏山,黒羽,大田原,茂木5県は宇都宮県に統合された。73年栃木県は宇都宮県を併合,76年旧館林県を群馬県に移管して,県域が確定したが,第2次大戦後,群馬県と県境を越えての町村合併が一部行われた。

栃木県の先縄文期の遺跡としては1961-62年に芹沢長介によって発掘された磯山(いそやま)遺跡(真岡市)が著名である。ナイフ形石器など2000点余の石器が出土し,ことに接合可能な石刃,石刃石核が集中して出土する。また楕円形石器は刃部が局部磨製で注目された。65年以後やはり芹沢によって星野遺跡(栃木市)の発掘が続けられ,ことに第5~11文化層ケイ岩製石器群は日本における〈前期旧石器〉として報告され注目を浴びた。向山(むかいやま)遺跡(栃木市)も1970-71年に発掘されたが,下位の第5・6層の石器群は星野下層出土のそれと類似する。これらはいずれも北関東における先縄文期(旧石器時代)石器群の変遷を知るうえで重要な遺跡である。

 縄文前期の藤岡貝塚(栃木市)は現在の東京湾汀線から約70km,関東平野最奥の貝塚として学史的にも著名。中期の坊山貝塚(矢板市)はフラスコ状ヒットが30以上群集して発見されたことで知られる。

 弥生時代では,中期前半とされる出流原(いずるはら)遺跡(佐野市)がある。土坑墓中に壺棺があり,碧玉製管玉の副葬や人面付き壺形土器などが発見された再葬墓の一つ。これと同様の再葬墓である野沢遺跡(宇都宮市)は,全体に縄文式の要素を強く残す中期野沢式の標準遺跡としても知られる。

 古墳では,豊富な馬具などを副葬した横穴式石室の小円墳からなる足利公園古墳群(足利市。1886年坪井正五郎により調査)や,1692年(元禄5)徳川光圀が大金重貞らに命じて発掘させた5世紀代の前方後方墳,侍塚(さむらいづか)古墳(大田原市)などが学史的に著名。八幡塚(はちまんづか)古墳(那須郡那珂川町)も前方後方墳で,侍塚に先行する4世紀末~5世紀初頭のもの。喜沢古墳群の主墳で,銅鏡3枚など豊富な遺物をもつ径32.4mの帆立貝式古墳の桑57号墳(小山市)は6世紀前半。七廻鏡塚(ななまわりかがみづか)古墳(栃木市)はやや遅れて6世紀後葉か。円墳で,刳抜(くりぬき)式舟形木棺内には屍蝋化した被葬者と武器,武具,竹櫛など,副棺の組合せ式木棺内には被葬者の毛髪が残っていた。7世紀代のものでは葺石(ふきいし)をもつ全長76mの前方後円墳の壬生(みぶ)古墳(下都賀郡壬生町)がある。

 歴史時代では,下野(しもつけ)国分僧寺・尼寺(下野市),白鳳期の創建で日本三戒壇の一つ下野薬師寺(下野市),平安時代以後形成された大谷(おおや)磨崖仏(宇都宮市),国造(くにのみやつこ)那須直韋提(なすのあたいいで)遺徳のために立てられた那須国造碑(大田原市),それに奈良時代以来の祭祀遺跡である男体山頂遺跡(日光市)などがある。
下野国
執筆者:

栃木県は東西約84km,南北約105km,面積は関東7都県のうち最も大きい。県域は東,北,西を山地と丘陵に囲まれ,中央には南に向けて緩傾斜の地形面が盆地状に開いている。北西部の帝釈(たいしやく)山地は,帝釈山を主峰とし,福島県との県境をなす。南西部の足尾山地は北端の夕日岳(1526m)を最高点として南東にゆるやかに傾斜する。県域北端部の那須岳を主峰とする那須火山群,その南西方に釈迦ヶ岳を含む高原火山群,さらにその南西方に白根山,男体(なんたい)山を含む日光火山群がある。これら火山群の周辺には温泉(那須,塩原,鬼怒川(きぬがわ),川治)も多く,日光国立公園に指定されている。東部の茨城県境には起伏の小さい八溝(やみぞ)山地が南北にのび,北から南に向けて低くなっている。この山地は八溝山を主峰とする八溝山塊,鷲子(とりのこ)山塊,鶏足(とりあし)山塊からなり,帝釈山地に発する那珂川が箒(ほうき)川,荒川を合わせて,鷲子・鶏足両山塊の間に横谷を形成し,茨城県に流れ出ている。これら東西両山地の間には緩傾斜の白河丘陵,那須扇状地,塩那(えんな)丘陵,および関東平野の一部である下野平野がしだいに東西の幅を広げながら南に向かって開け,中部平地をなしている。那須扇状地扇央部以北の那須野原は明治時代以後の開発によって県北部の主要な農業地帯となっている。塩那丘陵は県北の那珂川水系と県央の鬼怒川水系の分水界をなし,その南に広がる下野平野は,鬼怒川,渡良瀬(わたらせ)川とそれらの支流である田川,小貝川,思川,巴波(うずま)川などが形成する沖積低地およびそれらの間の台地からなり,県の政治・経済・文化の中核地帯をなす。

 気候は内陸性の特色をみせ,気温の年較差,日較差が比較的大きい。地形との関連から気候は一様ではなく,ことに北西部の山地は寒冷ないし冷涼で,このため北部は冷害に見舞われることがある。平地部でも晩霜によって農作物に被害をこうむるところがある。降水量は北西部の山地は年2000mmを超え,丹沢山地と並ぶ関東地方の最多雨地であるが,中南部の平地,東部の山地は1400mm内外で,関東地方の少雨地域の一部をなしている。夏には雷雨が多く,夏を中心に吹く南東季節風は,東関東の工業地帯の排気ガスを運び,酸性雨をもたらす。

栃木県では古くから中央部に開ける平地が首都圏と東北地方を結ぶ通廊としての役割を果たしてきた。鉄道が開通するまでは,奥州道中,日光道中,日光例幣使街道が,東北地方と中央を結ぶ連絡路として,あるいは日光東照宮への参拝路として大きな役割を果たしたが,一方,鬼怒川,那珂川などによる河川交通も,江戸(東京)と東北を結ぶ交通手段として大いに利用された。鉄道は1885年に日本鉄道の大宮~宇都宮間が開通,ついで宇都宮~黒磯間,黒磯~白河間が開通し,のち現在の東北本線となった。以後,両毛線,水戸線,日光線などが開通した。私鉄は94年に葛生の石灰石輸送を目的として葛生~越名(こえな)間(東武佐野線の前身)が開通し,以後,東武鉄道の各線が開通した。道路は県域を南北に走る国道4号線,東北自動車道を中心に,東西に横切る国道50号,119号,123号線などが通じており,とくに中部平地では道路網がよく発達している。近世には,街道の往来と舟運によって米,タバコ,織物,石灰,和紙などが江戸に送られていたが,現在はイチゴをはじめとする農作物,工業製品が京浜市場に出荷されている。宇都宮市以南の東北本線沿線などの地域には東京への通勤・通学者が多い。

1960年には総就業人口の45%を占めていた第1次産業人口は,92年には10%に低下し,一方,第2次産業人口は24%から39%に増加して,栃木県の産業構造は,農業依存から農工併行へと大きく転換した。

 栃木県の農業の中心は稲作である。第2次大戦期までの稲作は,中南部の河川流域の沖積低地で集中的に行われていたが,戦後は洪積台地の畑や平地林に開田が進み,とくに那須野原では開田が急速に進んで,県内屈指の稲作地帯になった。東部山地のタバコ,中南部のユウガオ(かんぴょうの原料),南部の桑苗,足尾山地で繊維用として栽培される大麻は戦前からの特産物で,近年は衰退しているものの,タバコを除くそれらは全国有数の生産量を上げている。また裏作の二条大麦の生産も全国の約3割,第1位を占める(1996)。1952年ころから足利・宇都宮両市周辺でトマト,キュウリの施設園芸が開始され,また水田裏作のイチゴ栽培も南部を中心に拡大し,全国の1割以上,第1位の生産量を誇る(1995)。そのほかトウガラシは茨城県と並ぶ日本の代表的産地である。畜産は,第2次大戦中までは那須野原を中心に馬の飼育が盛んであったが,戦後は集団開拓地を中心に乳牛の多頭飼育が行われ,牛乳生産量は全国有数である。林野面積は県全体の55%を占め,足尾山地,八溝山地を中心に杉,ヒノキが生産される。林産物の中では生シイタケの生産量が全国有数である。

江戸時代初期に発見され,日本有数の銅山として知られてきた足尾鉱山は1973年に閉山されたが,そのほかの鉱産物としては,足尾山地のマンガンドロマイト,石灰石,宇都宮市の大谷(おおや)石がある。また赤城山から噴出した軽石が風化,粘土化した鹿沼土は,園芸・盆栽用として愛用されている。

 栃木県の近代工業は,1871年に立地した宇都宮市の繊維工業に始まるが,第2次大戦前は足利・佐野地区などの繊維工業を中心に(足利織物),日光地区の金属工業,県内各地の食料品・木材工業,佐野市の旧葛生町と益子(ましこ)町の窯業などがおもなもので,全体的には軽工業主導型であった。第2次大戦中,宇都宮,小山(おやま),足利などの諸市に軍需工場が疎開し,重化学工業化が進んだ。戦後の一時期は繊維・食料品工業の復興がめざましく,軍需工場は民需の金属・機械工業に転換した。1955年ころから工業団地の建設や工場誘致政策によって機械,電気機器,輸送用機器工業を中心とする重工業加工型の工業化が進んだ。県の製造品出荷額7兆9300億円(1995)では電気機器が21%,輸送用機器が15%を占める。工業生産の拡大は人口の増加,都市化を促し,県人口の約1/3が県面積の約2%の市街地に集中している。

栃木県はその自然環境,人文環境の相違から三つの地域に大別される。

(1)県北部 日光,大田原,矢板,那須塩原,さくら,那須烏山の6市と那須郡,塩谷郡の全域を含み,県域のほぼ半分の面積を占める。この地域は他の2地域に比べ第1次産業の比重が高い。那須野原の稲作を中心に,八溝山地のタバコ,那須火山麓をはじめとする酪農,八溝山地,高原山の林業が卓越している。1960年ころから大田原市と黒磯市(現,那須塩原市)に,さらに70年ころから矢板市に電気機械工業が立地し,工業化が進んだ。かつて日本有数の銅山として栄えた足尾鉱山の閉山のため,日光・足尾地方の金属関連事業は停滞している。伝統工業としては日光市の旧今市市の線香がある。西部の日光市一帯は日光東照宮をはじめ,男体山,中禅寺湖などの景勝地や多くの温泉を擁する国際的観光地である。南東部は宇都宮市の影響を受け,商業,文化などの都市機能の集積は不十分であるが,高根沢町,さくら市の旧氏家町を中心にベッドタウン化が進行している。

(2)県央部 宇都宮市を中心に鹿沼市,真岡市,芳賀郡と河内郡の全域,下都賀郡の一部を含む。この地域は栃木県における最も重要な生産活動の舞台である。政治・経済・文化の中心をなすとともに,タバコ,ラッカセイ,トマト,ユウガオ,イチゴなどの農作物の主要生産地域を形成し,また工業化の進展も著しい。伝統工業としては,鹿沼市の麻織物,木材工業,益子町の陶器(益子焼)があるが,近年は宇都宮,鹿沼,真岡3市と上三川(かみのかわ)町に工業団地が造成され,工業化,都市化が急速に進展している。また益子町を中心とする伝統的産業都市の整備,1984年に指定された宇都宮地区のテクノポリス(宇都宮市,真岡市,芳賀町)には先端技術産業が集積している。宇都宮市は徳川譜代の城下町,日光道中の宿場町として栄えてきたが,今日も商業都市としての色彩が濃い。宇都宮市を中心とする放射状交通網によって同市への就業者,通学者,買物客が多く,通勤圏は県北部,県南部に及んでいる。

(3)県南部 足利,栃木,佐野,小山,下野の5市と下都賀郡の大部分と上都賀郡を含む。この地域の特色は,下野市を除く両毛線に沿う上記4市がそれぞれ中心性をもって併存し,県内で最も強く東京の影響を受けていることである。農業生産の中心をなすのは渡良瀬川流域のビニルハウスによる施設園芸で,3地域中最も卓越している。工業は足利・佐野両市および田沼町(現,佐野市)の繊維工業,葛生町(現,同市)の石灰工業を中心に発達してきたが,1960年ころから各地の工業団地を中心に機械・金属工業,プラスチック工業が行われるようになった。とくに小山市付近は東京から70kmの位置にあり,東北本線など交通上の至便も手伝って金属・電機工業が急速に発展し,人口の集積を促し,都市化が急速に進んだ。伝統工業としては,栃木市の履物,佐野市天明(てんみよう)の鋳物,栃木市および旧田沼町の粘土瓦がある。なお,この地域で見のがすことのできないのは,足尾鉱山の開発にともなってひき起こされた渡良瀬川の鉱毒・治水問題である(足尾鉱毒事件)。とくに鉱毒に関しては,今日なお完全な解決をみるに至っていない。
執筆者:


栃木[市] (とちぎ)

栃木県南部の市。2010年3月旧栃木市と大平(おおひら),都賀(つが),藤岡(ふじおか)の3町が合併して成立した。人口13万9262(2010)。11年10月に西方(にしかた)町を編入した。

栃木市中南部の旧町。旧下都賀(しもつが)郡所属。人口2万8813(2005)。旧栃木市の南,小山市の西に接する。町域の大部分は低平地で,北西部に低い山地が連なる。中心集落の富田は日光例幣使街道の旧宿場町で,現在もJR両毛線,東武日光線が通じる。1943年,新大平下駅東に進出した日立製作所栃木工場(現,日立アプライアンス栃木事業所)は県内有数の大工場で,町内に下請工場が多数ある。国道50号線沿いにある大平工業団地には,いすゞ自動車栃木工場が72年から操業を始め,関連工場も進出している。町の北西にそびえる太平山は県立自然公園に指定され,南斜面にはブドウ園が多い。中腹にある大中寺は曹洞宗の名刹(めいさつ)で,上田秋成の《雨月物語》でも知られる。

栃木市北東部の旧町。旧下都賀郡所属。人口1万3565(2005)。旧栃木市の北に接し,東武日光線が通じる。南北に走る東北自動車道から,東へ北関東自動車道が分岐している。西部は足尾山地東端の丘陵,東部は思川西岸の低地で,水田が広がる。中心集落は東武日光線の駅がある家中(いえなか)。イチゴの特産地で,キュウリ,トマト,ニラなどの野菜栽培も行われる。かつては大麻の生産が盛んであった。南部の合戦場(かつせんば)は,1523年(大永3)に宇都宮氏と栃木の皆川氏が戦った古戦場で,江戸時代は日光例幣使街道の宿駅であった。北関東自動車道のインターチェンジがある。
執筆者:

栃木市中北部の旧市。1937年市制。人口8万2340(2005)。足尾山地南東部から吹上扇状地の扇端部に至る地域を占め,巴波(うずま)川,永野川が南流する。1871年(明治4)から84年まで栃木県庁が置かれた。交通の要地で,JR両毛線と東武日光線が通じ,新栃木駅から東武宇都宮線が分岐する。1972年には東北自動車道の栃木インターチェンジが設けられた。在来の下駄,懐炉灰,粘土瓦の生産は減少したが,履物の生産はサンダル類へ転換して発展している。食品工業では在来のみそ,清酒,漬物のほか,西部の皆川・吹上地区を中心に食品加工,洋酒などの生産も多い。また東部の大宮・国府地区には機械工業も立地する。周辺は野菜を主とする畑作地帯であったが,第2次大戦後急速に水田化したが,のちイチゴ,トマトなどの施設栽培が盛んとなっている。西部に太平山(おおひらさん)県立公園がある。
執筆者:

戦国時代に町の北西の山地に皆川氏の築いた皆川城があったが,1590年(天正18)小田原征伐の際落城し,中心は平野部に移り栃木城が建設された。しかし1586年に栃木の町がつくられ始めたとする記録もある。1609年(慶長14)皆川広照は改易となり,城は破却されたが,土着した家臣団のなかから有力町人が生まれた。水陸の交通路や山地の資源に恵まれ,3・8の六斎市でにぎわい,17年(元和3)日光造営の資材陸揚げのために河岸(かし)が設けられてからは,巴波川舟運の終点として発展した。栃木河岸をはじめ多くの河岸が設けられ,これらの河岸から積み出された産物は,領米などの米穀はもちろん,麻,こんにゃく,タバコ,野菜などの畑作物,紙,木材,薪炭,出流(いずる)・錫山の石灰など多種にわたり,集荷地域は鹿沼(かぬま),今市を経て遠く会津方面,宇都宮西方地域,足尾山地山間部など広い範囲に及んだ。逆に利根川,渡良瀬(わたらせ)川をさかのぼってくる商品は,干鰯(ほしか)・油粕などの肥料や塩などであった。一方,46年(正保3)からは日光例幣使街道の宿駅として発展し,天保年間(1830-44)には本陣と7軒の旅籠(はたご)屋を含む1030軒の町家があった。この間,1704年(宝永1)には足利藩の飛地となり,89年(寛政1)には支配陣屋が置かれた。幕末には何度も大火にあったが,1864年(元治1)日光から太平山に登った田中愿蔵(げんぞう)の率いる水戸天狗党の一隊が御用金問題要求して放火,町の大半を焼失させた愿蔵火事が有名である。
執筆者:

栃木市北端部の旧町。旧上都賀(かみつが)郡所属。人口6978(2005)。1994年町制。思川上流の小倉川西岸の低地と,足尾山地に続く丘陵地を占め,北は鹿沼(かぬま)市に接する。中世に宇都宮氏の一族が城山に拠り,宇都宮の西にあたることから西方氏を名のった。中心の金崎は近世,日光例幣使街道の宿場町であった。小倉川には関東三大堰の一つ小倉堰があって周辺を灌漑し,〈西方五千石〉といわれた米どころであった。大麻の産も多かったが,1960年代に急激に減少し,イチゴのハウス栽培が急増した。ニラ,キュウリ,トマトなどの施設園芸も盛んである。隣接する粟野町(現,鹿沼市)にかけて地域公団・県により,宇都宮西中核工業団地がつくられた。鉄造の薬師如来像(重要文化財)を安置する金井の薬師堂は近郷の尊崇を集める。東武日光線,国道293号線が通じる。

栃木市南端の旧町。旧下都賀郡所属。人口1万8056(2005)。群馬,埼玉,茨城の3県と接する。関東構造盆地の中央部にあたり,3300haにおよぶ広大な渡良瀬川遊水池が町域の南半分を占める。北半は標高20m前後の台地である。中心集落の藤岡は遊水池の西に半島状に突き出た台地上にあり,江戸時代には渡良瀬川の河港,市場町として栄えた。かつては米麦を主とした農業と,遊水池に自生するヨシを原料とするよしず編みや,コイ,フナなどの内水面漁業が行われていたが,現在は米作を中心に野菜生産も行われる。渡良瀬川遊水池のうち南部450haには渡良瀬貯水池がつくられ,レクリエーション地としての開発も行われている。東武日光線が通じ,佐野市との境に東北自動車道の佐野藤岡インターチェンジがある。1907年に合併された旧谷中村は足尾鉱山から流出する鉱毒に対して繰り広げられた反対運動の拠点であった。篠山に藤岡貝塚がある。
足尾鉱毒事件
執筆者:

栃木[温泉] (とちのき)

熊本県阿蘇郡南阿蘇村にある温泉。阿蘇山の火口原を流れる白川上流の河岸に湧き,湯量が豊富である。含ボウ硝泉,40~45℃。付近に鮎返(あゆがえり)滝,白糸滝がある。熊本市方面からの阿蘇登山の入口にあたり,JR豊肥本線立野駅からバスの便がある。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android