枝光村(読み)えだみつむら

日本歴史地名大系 「枝光村」の解説

枝光村
えだみつむら

[現在地名]八幡東区枝光本町えだみつほんまち・枝光一―五丁目・東田ひがしだ二―五丁目・荒手あらて一―二丁目・宮田町みやたまち大宮町おおみやまち日の出ひので一―三丁目・白川町しらかわまち諏訪すわ一―二丁目・藤見町ふじみまち山王さんのう一―四丁目・上本町かみほんまち一―二丁目・大蔵おおくら一丁目など

尾倉おぐら村の北東に位置する。西は内海(洞海湾)に面し、北は戸畑とばた(現戸畑区)、東は中原なかばる(現同上)、南東は大蔵村。枝三とも記した(続風土記附録)本村のほか中銘なかのみよう(中ノ名)北山きたやま下宮しものみや長尾犬川いんかわ・堂山などの集落がある。うち中銘は古くは尾倉村のうちであったが、寛永年中(一六二四―四四)に当村に編入された(続風土記拾遺)。小早川時代の指出前之帳では枝光村の田一六町余(分米一四五石余)・畠六町一反余(分大豆二二石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高五七三石余(慶長石高帳)

枝光村
えだみつむら

[現在地名]久留米市合川町あいかわまち

筑後川中流左岸、府中ふちゆう町の北西にあり、西縁を支流高良こうら川が流れる。枝光台地に縄文時代晩期の広野ひろの遺跡や弥生時代の御蔵園みくらぞの遺跡・古宮ふるごう遺跡があり、沼尻ぬまじりかきうちでは古代官道の遺構も発見された。弘安三年(一二八〇)六月八日の草野永基惣間帳写(草野文書/鎌倉遺文一九)に永基相伝の所領のうちとして「枝光村在家并田畠等」がみえ、田は高良社の修理料、畠は同社の五節句の供物料、在家は奈良西大寺領竹野たかの(現田主丸町)に属する旨が注されている。文亀二年(一五〇二)筑後守護の大友義長により「草野本名之内枝光」の六町が草野氏に安堵され(同年三月三日「大友親治宛行状案」同文書/久留米市史7 資料編古代・中世)、永正五年(一五〇八)にも同氏の知行が確認できるが(同年一一月三日「草野興秀知行坪付案」同上)、当村が草野氏の根本所領として認識されていたことが推定される。

枝光村
えだみつむら

[現在地名]三橋町枝光

現三橋町域の西端、ほぼ西流する沖端おきのはた川北岸にある。南は同川を隔て鬼童おんどう(現柳川市)、西は三潴みづま浜武はまだけ(現同上)、北は同郡西蒲池にしかまち(現同上)。村名は「えだみち」ともよばれる(享和三年筑後国郡村仮名附帳)。寿永元年(一一八二)八月一六日付の瀬高下庄公文所下文写(鷹尾家文書/平安遺文八)高良こうら別宮鷹尾たかお(現大和町)への饗膳酒肴調進の名として「枝光二名」がみえ、瀬高下せたかしも庄内の名であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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