枇杷庄村(読み)びわのしようむら

日本歴史地名大系 「枇杷庄村」の解説

枇杷庄村
びわのしようむら

[現在地名]城陽市大字枇杷庄

現城陽市の西南部、西行する木津きづ川の北に位置する。北は寺田てらだ村、東は富野との村、西は綴喜郡水主みずし村。久世郡に属する。

村名はこの地が古く近衛家の荘園で、近衛家の始祖基通の屋敷を枇杷殿と称したことによるという伝承があるが、枇杷殿は藤原基経の屋敷であり、枇杷大臣と称されたのはその息仲平であるから史実とは違う。しかし近世は村域の半分以上が近衛家領であり、近衛政家の日記後法興院記文明一一年(一四七九)八月三日条に「一条院坊人好実上洛、就枇杷庄義也」とあるから室町時代には近衛家と関係の深い地であったことは確かで、そのような伝承が生じたものと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報