松阪(読み)マツサカ

デジタル大辞泉 「松阪」の意味・読み・例文・類語

まつさか【松阪】

三重県中部、伊勢湾に臨む市。もと紀州藩城代の城下町で、参宮・熊野・和歌山の三街道が集まる宿場町、また伊勢商人根拠地として繁栄。松阪牛の産地。本居宣長旧宅などがある。人口16.8万(2010)。
[補説]古くは「松坂」と書いた。

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改訂新版 世界大百科事典 「松阪」の意味・わかりやすい解説

松阪[市] (まつさか)

三重県中央部の市。2005年1月旧松阪市と飯高(いいたか),飯南(いいなん),嬉野(うれしの),三雲(みくも)の4町が合体して成立した。人口16万8017(2010)。

松阪市南西部の旧町。旧飯南郡所属。人口5555(2000)。台高山脈の連山を境として奈良県に接する。町域の大部分紀伊山地に属する山地で,町の中央を東流する櫛田川とその支流の蓮(はちす)川沿いに集落が形成される。耕地面積が極端に少なく山林が町域の9割をこえるため林業が基幹産業となっている。土壌,気候ともに好条件に恵まれ,吉野杉に匹敵する良質の杉材を産出し,またみがき丸太材の生産も盛ん。良質で知られる香肌(かはだ)茶の栽培も行われる。櫛田川に沿う国道166号線は近世の和歌山街道で,伊勢参りの客でにぎわい,宮前,波瀬,七日市などの集落が宿場町として栄えた。町全体が香肌峡県立公園に,西部の県境一帯が室生赤目青山国定公園に指定されている。

松阪市中部の旧町。旧飯南郡所属。人口6180(2000)。紀伊山地に属する山地にあり,町の中央部を東流する櫛田川に沿って段丘が発達する。櫛田川の谷沿いに国道166号線(和歌山街道),368号線が通じ,耕地と集落が分布する。基幹産業は林業で,伊勢茶栽培の中心地でもあり,シイタケも産する。町の大部分は香肌峡県立公園に含まれ,渓流と緑につつまれた自然美を呈している。来迎寺や医王寺,道専寺などの古寺があり,来迎寺の銅鐘と粥見本郷のかんこ踊は県文化財に指定されている。

松阪市北部の旧町。旧一志郡所属。人口1万7884(2000)。北東部は伊勢平野に属する沖積低地で,南西部は高見山地の北東端に当たる山地である。集落は北東の平野部と町の中央を流れる雲出川の支流中村川沿いに形成されている。町名は倭姫命(やまとひめのみこと)が阿坂山の悪神を平定したという伝説に由来。古代の一志郡の中心地で,町域に古墳時代前期の古墳や7世紀の廃寺跡が多く,一志は豪族壱志氏の発祥の地といわれ,同氏一族の墳墓と思われる向山古墳(史),筒野古墳がある。基幹産業は農業で,米作を中心に蔬菜・花卉栽培が行われている。ほかに畜産も盛んで,肉牛は松阪肉として出荷される。JR名松線,近鉄大阪線・名古屋線が通じる。また伊勢自動車道一志嬉野インターがある。
執筆者:

松阪市北東部の旧市。古くは松坂と記し,〈阪〉の字も混用されたが,明治期以降〈松阪〉となる。1933年市制。人口12万3727(2000)。市域は西の紀伊山地から東の伊勢湾に注ぐ櫛田川,阪内(さかない)川の河口にまで広がる。1588年(天正16)蒲生氏郷が阪内川下流右岸に城を築き,城下町を建設したのが市街発展の基礎となる。江戸時代には市域の大部分は紀州藩領となり,松坂は紀州藩勢州領の一拠点であった。その間,周辺農村で生産された木綿を商う松坂商人の活躍は目ざましく,江戸に進出した伊勢商人の中核をなしたが,その代表は呉服商越後屋を営んだ三井家である。また参宮街道,和歌山街道,初瀬街道,熊野街道の合流点に当たったため宿場町としても栄え,現在JR紀勢本線・名松線,近鉄山田線,国道23号線,42号線,166号線,伊勢自動車道などが通り,商圏は中・南勢から熊野方面に大きく広がっている。

 工業はかつて紡織業や木材業を主としたが,1960年代に松阪港後方に造成された工業団地にガラスや機械,内陸には電器,漁網などの工場が立地した。特産の松阪肉は高級肉の代名詞とされている。松坂城跡には魚町から移築した本居宣長の旧宅(鈴屋(すずのや)。特史)や宣長記念館,殿町には護城番屋敷,本町には三井家の旧宅跡がある。宣長の奥墓(史)は山室町の妙楽寺に,宣長とその子春庭の墓(史)は新町の樹敬(じゆきよう)寺にある。
執筆者:

市域の大部分はかつての伊勢国飯高郡の東部と飯野郡を中心とする(ほかに多気・一志両郡の一部を含む)。飯野郡は,平安時代〈神三郡〉と称された伊勢神宮領3郡の一つで,飯高郡ものちに神領とされた。京と伊勢神宮を結ぶ要路にあって,飯高郡には飯高駅が設置されていたが,同駅の所在地は駅部田(まえのへた)など当市内に比定される。中世まで最も栄えたのは保曾汲(ほそくみ)(細汲,細頸(ほそくび)とも),のちに松ヶ島と呼ばれた市域北部の三渡(みわたり)川河口右岸の地である。1105年(長治2)勅使源雅実が伊勢参宮の途次〈保曹久美〉を通過しており(《雅実公記》),また九条道家の日記《玉蘂(ぎよくずい)》建暦1年(1211)6月の記事によれば,細汲には斎宮寮供御人(くごにん)が居住し,隣接する平生御厨(ひらおのみくりや)と境界を争っている。南北朝期以降,北畠氏の支配が一帯に及ぶが,戦国時代になると,1560年(永禄3)大湊(現,伊勢市)からの使船が細汲に派遣されているなど,宿場・港町として発展しつつあった。

 他方,永禄年間に北畠具教(とものり)が細汲に築城し,69年織田信長の伊勢侵攻のとき,城将日置大膳亮が同城で抵抗後,自焼したと伝え,北畠勢は阪内川上流の大河内(おかわち)城に籠城し,やがて和議を結ぶ。71年(元亀2)には北畠具教は,細汲に釜をすえた他国の鋳物師(いもじ)の営業を禁止し,蛸路(たこじ)や阿波曾(あわそ)に居住する当国の鋳物師に保護を与えている。80年(天正8)織田信雄(のぶかつ)は新たに築城するとともに細汲を松ヶ島と改名したと伝えるが,《御湯殿上日記》同年9月16日条にはすでに〈松かしま〉とみえている。のち蒲生氏郷の松坂築城まで,松ヶ島は南伊勢の政治・経済・軍事の拠点であった。しかし松坂城下建設とともに町人は松坂に移住させられ,参宮街道も松坂経由に付け替えられ,松ヶ島は一農村となった。なお市域南東部,櫛田川左岸の射和(いざわ)は,古くより多気郡丹生(現,多気町)産の水銀を原料に白粉(伊勢白粉)を製し,近世には射和商人は松坂商人と並んで多方面に活動した。
執筆者: 1584年織田信雄に代わって松ヶ島城に入った蒲生氏郷は,88年阪内川下流右岸の孤立丘陵に新たに城を築いて城下町を開き,松坂と名付けた。近江商人を呼び,近辺からも農民以外を移住させて商人町,職人町を整備し,楽市による繁栄を図った。以後,領主の交代が続いたが,1619年(元和5)古田重治が石見国浜田へ移封されて松坂藩は廃藩,以後紀州藩領になり,城代-奉行の機構によって支配された。城下町にふさわしい町の配置,外敵を防ぐ工夫を施した街路や家並みは長く残ったが,政治都市としては停滞した。やがて伊勢参宮が盛んになると参宮街道の宿場町として発展した。日野町に本陣以下の上級宿屋,平生町,愛宕(あたご)町などに平旅籠(ひらはたご),愛宕町,川井町には道者相手の遊女屋が生まれた。街道沿いに新たに形成された町もある。

 周辺農村で木綿生産が盛んになると,単なる宿場町ではなく,旧来の町々が商業地域となり,しだいに諸物資の集散と供給の機能をもつ商業都市として発達した。松坂木綿を扱う問屋町が生まれ,その活況のなかから伊勢商人が輩出,なかには江戸へ進出する者もあった。また,紀州藩の年貢米を扱う問屋もおこった。町の規模は,18世紀中ごろで戸数2300余,人口約8400,幕末で戸数3300余,人口1万1000弱であった。町奉行の下に町人身分の大年寄が置かれ,各町の町年寄,肝煎を管轄した。
執筆者:

松阪市北東端の旧町。旧一志郡所属。人口1万1158(2000)。伊勢平野のほぼ中央,三渡(みわたり)川と雲出(くもず)川の沖積低地にあり,東は伊勢湾に面する。久米などには古代条里制の遺構がみられ,中世には蘇原御厨(そはらみくりや),甚目(はだめ)御厨(御薗)など伊勢神宮領や,醍醐寺領曾禰(そね)荘があった。伊勢参宮路に沿っていた星合(ほしあい)は,中世の紀行文や和歌に名がみえる。江戸時代は津藩領と紀州藩領が入り組んでいた。海岸部には新田が開かれ,新井や笠松井などの用水路が開削された。現在も一志米の主産地として知られ,花卉・野菜栽培,養豚も盛ん。沿岸部ではノリなどの養殖も行われる。JR紀勢本線,国道23号線が通じ,都市化が著しい。1981年三重県中央卸売市場が開設された。なお,蝦夷地探検で知られる松浦武四郎は当地の出身で,小野江にその生家跡がある。
執筆者:

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世界大百科事典(旧版)内の松阪の言及

【伊勢商人】より

…中世,とくに近世,近江商人とならんで江戸・大坂などで活躍した伊勢松坂等出身の商人。江戸時代〈江戸に多きものは伊勢屋,稲荷に犬の糞〉といわれるほど伊勢出身の商人が多く,その商業活動が目覚ましかったが,それは中世における伊勢商人の台頭や活躍と無関係ではなかった。中世の伊勢には東国に多数分布する伊勢大神宮領から送進される年貢物の集散や陸揚げを行う大湊など港津が発達し,また畿内と東国を結節する地理的条件に恵まれたため桑名のような自治都市の成立もみられ,多くの廻船業者,問屋が輩出した。…

【十楽】より

…本来は仏語で,極楽浄土で味わえる十種の喜びをいう。鎌倉時代,越前国坪江下郷十楽名,紀伊国阿氐河(あてがわ)荘十楽房,十楽名のように,しばしば仮名(けみよう)・法名として使われた。同様の例として〈一楽名〉も見られるが,このように広く庶民の間で用いられるにつれて,十楽は楽に力点を置いて理解されるようになる。戦国時代,諸国の商人の自由な取引の場となった伊勢の桑名,松坂を〈十楽の津〉〈十楽〉の町といい,関,渡しにおける交通税を免除された商人の集まる市(いち)で,不入権を持ち,地子を免除され,債務や主従の縁の切れるアジールでもあった市を〈楽市〉〈楽市場〉といったように,〈十楽〉〈楽〉は中世における自由を,十分ではないにせよ表現する語となった。…

【三重[県]】より

…近世から続く伊勢いもや伊勢たくあん用のダイコン栽培,戦後の伊勢茶,三重サツキ,洋ラン,ニュー南紀ミカンが県を代表する特産物として知られる。ほかに北勢・中勢地方は鶏卵,豚の特産地指定を受けており,松阪牛,伊賀牛の肥育も盛んである。農畜産物の出荷先は京阪神市場が多く,名古屋市場,東京市場がこれに次いでいる。…

※「松阪」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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