松林伯円(読み)ショウリンハクエン

デジタル大辞泉 「松林伯円」の意味・読み・例文・類語

しょうりん‐はくえん〔‐ハクヱン〕【松林伯円】

[1832~1905]講釈師。2世。常陸ひたちの人。鼠小僧など白浪物を得意とし、「泥棒伯円」と称された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「松林伯円」の意味・わかりやすい解説

松林伯円
しょうりんはくえん

講釈師。松林は「まつばやし」ともよばれる。

[延広真治]

初代

(1812―55)本名堀川助太郎。父は軍談の席亭。初代神田伯竜の門に入り伯円、大坂で評判をとり、江戸に帰り松林亭と改号。桃林亭東玉(とうりんていとうぎょく)の芸風を慕い、世話物を得意とした。安政(あんせい)大地震で圧死

[延広真治]

2代

(1832―1905)本名若林義行(よしゆき)。下館(しもだて)藩郡奉行(こおりぶぎょう)手島助之進の四男辰弥(たつや)。のち彦根(ひこね)藩画師向谷源治の養子となるが、講釈に熱中して離縁され、縁類の作事奉行若林市左衛門に引き取られる。伊東潮花(ちょうか)門で花郷(かきょう)、3代宝井馬琴門に転じて調林(ちょうりん)。中風で病臥(びょうが)した初代伯円の養子となって2代目を襲名。明治に入ってからは、松林亭の「亭」の字をとり、洋服着用、テーブル椅子(いす)を使用する新聞講談の新領域も開拓したが、「泥棒伯円」の異名でも知られるように、白浪物(しらなみもの)を得意とし、『鼠小僧(ねずみこぞう)』『天保六花撰(てんぽうろっかせん)』などの創作も多く、1885年(明治18)刊の『安政三組盃(あんせいみつぐみさかずき)』は講談速記本の先駆となった。92年には明治天皇御前講演を行ったが、晩年は東玉と改めて隠棲(いんせい)。毎年南泉寺(東京都荒川区日暮里(にっぽり))で伯円忌が営まれている。

[延広真治]

3代

(1854―1919)本名大宮庄次郎(しょうじろう)。2代目門下で、伯養、のち右円。新作読みで人気を得て、娘を2代目の養女として3代目を襲うなど政治的手腕もあったが、他の門弟の反発を買い、松林を返上する者が相次いだ。

[延広真治]

『吉沢英明編著『二代松林伯円年譜稿』(1997・眠牛舎)』『吉沢英明編著『松林伯円作品集』1・2(1998、99・眠牛舎)』


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改訂新版 世界大百科事典 「松林伯円」の意味・わかりやすい解説

松林伯円 (しょうりんはくえん)

講釈師。江戸後期の初世から明治・大正の3世まであるが,2世が有名。2世(1832-1905・天保3-明治38)は本名若林義行。常陸国下館藩郡奉行手島助之進の四男として生まれ,彦根藩画師向谷源治の養子となるが,講釈に熱中のあまり離縁。伯母の夫である幕府作事奉行若林市左衛門に引き取られ,河内山宗春一味や鼠小僧を裁いた筒井伊賀守邸をはじめ武家屋敷に出入りして講釈を行う。伊東潮花に入門して花郷,さらに東秀斎琴調(2世宝井馬琴)門に転じて調林,初世松林亭伯円の前講をつとめる。初世が病臥したのをきっかけに養子となり,伯円を襲う。白浪物を得意とし《鼠小僧》や《小猿七之助》《鬼神のお松》などを河竹黙阿弥が4世市川小団次に当てて脚色上演して評判となったことも拍車をかけて,〈泥棒伯円〉と異名をとった。1873年教部省に教導職が置かれ大講義を拝命,浅草寺境内で新聞の重要記事を読む新聞講談を始める。77年に翻案物《独逸の賢婦ヲチリヤの伝》を演じ,85年《安政三組盃》を講談速記本の先駆けとして刊行。92年7月9日鍋島邸で明治天皇に御前講演《楠公桜井の駅訣別》を読むなど,講談の地位を高めた。断髪,洋服着用,椅子やテーブルの使用など壮年期は時代の寵児の感もあったが,晩年は寂しく,中風のため,1901年に高弟右円に3世伯円を譲り,東玉と改め隠棲した。本格的な修業をしていないためのどが弱かったが,創作力に富み,《天保六花撰》《中山大納言》などの名作を残した。
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世界大百科事典(旧版)内の松林伯円の言及

【講談】より

…神田派は初代神田伯竜が知られ,その門下の神田伯山は《天一坊》を読んで一世を風靡した。同じ伯竜門下の松林伯円は松林派の祖となった。東西の寄席が講釈専門の釈場,落語中心の席に二分されるようになったのは嘉永(1848‐54)のころである。…

【講談本】より

…すでに江戸時代にも講談の種(たね)本が〈実録本〉として貸本屋に持ちまわられていたが,明治期に入ると速記術とジャーナリズムの種々形態の発展にともない,明治中期以降,印刷された形での講談の発表が盛んになっていった。まず,2代松林伯円(しようりんはくえん)の世話講談《安政三組盃(みつぐみさかずき)》が1885年(明治18)に速記本となり,以後続々と講談本が刊行された。明治30年代には関西でも講談の速記本があらわれ,また,2代玉田玉秀斎(たまだぎよくしゆうさい)からポケット判講談本〈立川(たちかわ)文庫〉が生まれて,大正時代に広く親しまれた。…

【白浪物】より

…白浪とは盗賊の異名で,後漢の末,黄巾賊の余党が西河の白波谷に隠れて,財宝略奪を事としたのを,時の人が白波賊と呼んだ故事からきており,盗賊を主人公とする。幕末の講釈師,松林伯円(しようりんはくえん)がこの種の講談を得意としてしきりに口演し,時流に乗って人気を博して,世に〈泥棒伯円〉と称された。これを歌舞伎にとりこんだのが河竹黙阿弥である。…

【政治講談】より

…自由民権運動の主要な宣伝活動の形態である演説会が,一定期間演説禁止処分をこうむる弁士の続出により困難になったため,口の動きを封じられた民権活動家が,演説に代り,それと同じ機能を果たすものとして案出したのが政治講談である。その誕生には東京浅草寺境内で新聞の重要記事を読んだ〈新聞講談〉の創始をはじめ新機軸を次々に打ち出した松林伯円(しようりんはくえん)らの意欲的な試みにより,講談が民衆娯楽として大盛況を呈していることが刺激となっていた。民権講談の嚆矢(こうし)は坂崎斌(びん)(紫瀾)である。…

【鼠小僧次郎吉】より

…江戸末期の諸大名奥向きの放漫と庶民の困窮を描出し,義賊がぬけめなく立ち回る点に享受者の共感があった。2世松林(しようりん)伯円は〈泥棒伯円〉と呼ばれるほど白浪物(しらなみもの)講釈を得意とし,その演目の一つが《緑林(みどりがはやし)五漢録――鼠小僧》で,これをもとに河竹黙阿弥が脚色した歌舞伎が《鼠小紋東君新形(ねずみこもんはるのしんがた)》である。その初演の年,同名題の合巻を紅英堂から出版(柳水亭種清編,2世歌川国貞画),市井の小盗賊を英雄視したところに幕末の時代相が反映されている。…

※「松林伯円」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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