松平正綱(読み)まつだいらまさつな

改訂新版 世界大百科事典 「松平正綱」の意味・わかりやすい解説

松平正綱 (まつだいらまさつな)
生没年:1576-1648(天正4-慶安1)

徳川家康側近。幼名長四郎,正久,右衛門佐のち右衛門大夫。大河内秀綱次男で,1587年(天正15)家康の命により長沢松平正次の養子となる。のち駿府で板倉重昌,秋元泰朝とともに家康の近習出頭人(きんじゆしゆつとうにん)となり,勘定頭を兼ねる。家康の遺言を聞き,久能山埋葬,日光遷葬に供奉。1625年(寛永2)2万2100石余に加増,相模甘縄城主となる。日光山廟塔普請や祭礼法会奉行をたびたび務め,日光杉並木を寄進した。
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朝日日本歴史人物事典 「松平正綱」の解説

松平正綱

没年:慶安1.6.22(1648.8.10)
生年:天正4(1576)
江戸幕府初期の勘定頭(勘定奉行)。遠江国(静岡県)生まれ,初名正久,通称長四郎,右衛門佐のち右衛門大夫を称す。大河内金兵衛秀綱の次男,長沢松平正次の養子となり,文禄1(1592)年徳川家康に仕え,家康が駿府に移ると近習出頭人となり駿府の勘定頭を兼ねた。家康臨終に際して遺言を聞き,久能の葬儀,日光改葬に供した。次いで秀忠政権のもとで伊丹康勝と共に勘定頭として老中奉書に加判するなど活躍,寛永2(1625)年加増されて2万2100石の大名となり相模甘縄を居所とした。10年家光により康勝と共に出仕を止められ,翌年赦免されたが奉書加判は復活せず,権限の多くは伊奈忠治,大河内久綱,曾根吉次ら勘定頭に移る。日光社参,法会にしばしば供奉,修復の奉行を勤め,杉並木を寄進した。老中松平信綱の養父

(大野瑞男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松平正綱」の解説

松平正綱 まつだいら-まさつな

大河内正綱(おおこうち-まさつな)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の松平正綱の言及

【勘定奉行】より

…元禄ごろまでは勘定頭と称したが,その成立の経緯は必ずしも明らかでなく,幕府成立当初は老中が勘定奉行の職務を兼ね,実質は大久保長安や伊奈忠次がこれに近い役割を果たしていたようである。その後1609年(慶長14)松平正綱が会計の総括を命じられ,15年(元和1)奉書連署,諸士支配とともに勘定奉行兼務を命じられた。30年(寛永7)曾根吉次は関東勘定頭,ついで36年惣勘定頭となった。…

※「松平正綱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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