松岡洋右(読み)マツオカヨウスケ

デジタル大辞泉 「松岡洋右」の意味・読み・例文・類語

まつおか‐ようすけ〔まつをかヤウすけ〕【松岡洋右】

[1880~1946]外交官政治家。山口の生まれ。オレゴン大学卒業。国際連盟特別総会に首席全権として出席し、脱退を宣言。満鉄総裁を経て、第二次近衛内閣の外相となり、日独伊三国同盟日ソ中立条約を締結。第二次大戦後、A級戦犯として起訴されたが病没。

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精選版 日本国語大辞典 「松岡洋右」の意味・読み・例文・類語

まつおか‐ようすけ【松岡洋右】

外交官、政治家。山口県出身。オレゴン州立大学卒。外交官・満鉄副総裁等を歴任後、政友会代議士となる。日本の国際連盟脱退のとき首席全権として国際連盟総会に出席、のち満鉄総裁を経て第二次近衛内閣の外相。日独伊三国同盟・日ソ中立条約を締結した。第二次世界大戦後A級戦犯となり獄中で病死。明治一三~昭和二一年(一八八〇‐一九四六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「松岡洋右」の意味・わかりやすい解説

松岡洋右
まつおかようすけ
(1880―1946)

大正・昭和期の外交官、政治家。明治13年3月4日山口県に生まれる。1893年(明治26)渡米し、苦学してオレゴン州立大学を卒業。1904年(明治37)外交官となり、中国などに勤務。満蒙(まんもう)への勢力拡大に関心をもつようになり、寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣の時期には首相・外相秘書官としてシベリア出兵を促した。1921年(大正10)満鉄理事となる。1927年田中義一(たなかぎいち)内閣により副社長(のち副総裁と改称)に任ぜられ、内閣の「満蒙分離政策」を支持して満蒙五鉄道建設を図ったが、内閣倒壊で挫折(ざせつ)。1929年満鉄を去り、1930年政友会代議士となった。幣原(しではら)外交を非難・攻撃し「自主外交」を唱え、満州事変後の1933年、国際連盟特別総会(ジュネーブ)に日本首席代表として出席、熱弁を振るったが、「満州国」が否認されたため退場した。1935年満鉄総裁となり、軍部と結んで華北侵略政策を進め、1940年第二次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の外相となり日独伊三国同盟を結び、1941年には日ソ中立条約を結んだ。敗戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯に指定され、昭和21年6月27日獄中で病死した。

[佐々木隆爾]

『松岡洋右伝記刊行会編『松岡洋右』(1974・講談社)』『豊田穣著『松岡洋右――悲劇の外交官』上下(新潮文庫)』


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百科事典マイペディア 「松岡洋右」の意味・わかりやすい解説

松岡洋右【まつおかようすけ】

外交官,政治家。山口県生れ。米国オレゴン州立大学卒。外務省に入った。1921年外務省を辞し,満鉄理事。1927年同副総裁。1929年政友会代議士となり,1931年の第59議会では幣原外交を批判。1933年国際連盟総会首席全権として出席,連盟の満州国批判決議に抗議して退場,連盟脱退の英雄となる。1937年満鉄総裁となり,軍部と結び,1940年外相として日独伊三国同盟を締結,1941年日ソ中立条約を締結。日米交渉に反対。A級戦犯に指定されたが病死。
→関連項目近衛文麿内閣東京裁判

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改訂新版 世界大百科事典 「松岡洋右」の意味・わかりやすい解説

松岡洋右 (まつおかようすけ)
生没年:1880-1946(明治13-昭和21)

外交官,政治家。山口県出身。13歳で渡米し,苦学して1900年にオレゴン州立大学を卒業し,04年外交官および領事官試験に合格,上海領事館,関東都督府,ロシア,アメリカに在勤した。21年に外務省を辞めて満鉄理事となり,27年には満鉄副総裁に就任,この間に対満蒙積極論の考えを強くする。29年に帰国,山口第2区から政友会代議士になった。31年の第59議会では幣原外交を批判し,満蒙は日本の生命線であると主張した。32年には上海事変処理のため外務大臣特使として上海に派遣された。また国際連盟総会には首席全権として出席し,33年2月連盟における満州国批判決議に抗議して退場,連盟脱退の“英雄”として右翼などに歓迎された。35-39年満鉄総裁。40年7月に近衛文麿内閣の外相となるや〈大東亜共栄圏〉の確立を主張して,日独伊三国同盟を締結し,さらにソ連を加えた四国同盟を構想した。41年訪独・伊の帰途,4月に日ソ中立条約の調印にこぎつけたものの,その2ヵ月後に独ソ戦が開始され,一連の外交政策は完全に行き詰まった。同年7月,松岡の日米交渉反対論により内閣は総辞職した。その後は結核のため療養生活を続け,戦後A級戦犯に指名されたが,46年6月に病死した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松岡洋右」の意味・わかりやすい解説

松岡洋右
まつおかようすけ

[生]1880.3.4. 山口
[没]1946.6.27. 東京
外交官,政治家。 1893年渡米,オレゴン大学に学び,帰国後外務省に入り,1921年南満州鉄道会社理事,さらに副総裁を歴任。のち衆議院議員となり,政友会に属した。 33年ジュネーブの国際連盟会議に全権大使として出席し,日本軍の満州撤退勧告案 (→リットン調査団 ) が採択されたとき,議場を退場,連盟脱退の役割を演じ,「ジュネーブの英雄」とされた。 40年第2次近衛内閣の外相となり,日独伊三国同盟 (1940) ,日ソ中立条約 (41) を締結。対米強硬路線に立ち,第2次世界大戦後,A級戦犯として東京裁判で審理中病没。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「松岡洋右」の解説

松岡洋右
まつおかようすけ

1880.3.4~1946.6.27

大正・昭和前期の外交官・政治家。山口県出身。苦学してオレゴン州立大学を卒業し,外務省に入る。のち退官して南満州鉄道(満鉄)理事となり,1927年(昭和2)副総裁として田中義一内閣の積極外交を支える。田中内閣崩壊後,立憲政友会代議士として幣原外交を批判。32年国際連盟総会の首席全権となり,結果的に連盟脱退に導いた。35年満鉄総裁。40年には第2次近衛内閣の外相となり,大東亜共栄圏を提唱。日独伊三国同盟および日ソ中立条約を締結し,そのうえで日米関係を打開しようとしたが,独ソ戦が勃発し,内閣総辞職のかたちで更迭された。第2次大戦後,極東軍事裁判でA級戦犯に指名されたが,判決前に病死。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松岡洋右」の解説

松岡洋右 まつおか-ようすけ

1880-1946 明治-昭和時代前期の外交官,政治家。
明治13年3月4日生まれ。外交官を17年間つとめたのち,大正10年満鉄理事,昭和2年副総裁。5年衆議院議員(当選2回,政友会)。7年国際連盟総会の首席全権となり,8年満州国否認の採択に抗議・退場した。10年満鉄総裁。第2次近衛(このえ)内閣の外相として,15年日独伊三国同盟,16年日ソ中立条約を締結。戦後,A級戦犯に指名され,裁判中の昭和21年6月27日病死。67歳。山口県出身。オレゴン州立大卒。
【格言など】日本はどうなるだろうか(死の3日前のつぶやき)

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旺文社日本史事典 三訂版 「松岡洋右」の解説

松岡洋右
まつおかようすけ

1880〜1946
昭和期の外交官・政治家
山口県の生まれ。オレゴン州立大卒。外交官を歴任したのち,南満州鉄道株式会社(満鉄)副総裁に就任。帰国後,政友会から衆議院議員に当選。1933年国際連盟総会で首席全権として連盟脱退を声明した。満鉄総裁を経て,'40年第2次近衛文麿内閣の外相となり,日独伊三国同盟を締結。'41年ドイツ・イタリア訪問の帰途日ソ中立条約を結び,日米交渉に反対し,近衛首相と対立した。第二次世界大戦後,A級戦犯として審理中,獄中で病死した。

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世界大百科事典(旧版)内の松岡洋右の言及

【外交】より

…それは〈迂回外交〉ということもできる。 太平洋戦争前の日本の外相松岡洋右も〈グランド・ストラテジー〉を狙い,〈迂回外交〉の実践者であった。すなわち,彼は四大国を中心として,世界の政治秩序を再構成する夢をもち,またドイツ,イタリアと軍事同盟を結び,ソビエトと中立条約という形で提携を進めることにより,アメリカに対する日本の立場を強化し,アメリカの了解をとりつけうるものと構想した。…

【太平洋戦争】より


[開戦への道]
 1941年4月16日,第2次近衛内閣は日米関係の改善をめざし,ワシントンで日米交渉を開始した。近衛首相らは,日独伊三国同盟の反米的性格を弱めた〈日米了解案〉を基礎に交渉を進めたが,松岡洋右外相の反対にあい,交渉は難航した。6月22日に独ソ戦が勃発すると,日本は7月2日の御前会議で南北併進の方針を決定し,陸軍は7月下旬から,〈関東軍特種演習〉(関特演)を実施してソ連を後方から威嚇した。…

【日ソ中立条約】より

…1941年4月13日に調印された日本とソビエト間の中立条約。外相松岡洋右,駐ソ特命全権大使建川美次とソビエト外務人民委員V.M.モロトフとがモスクワで調印した。1940年7月に成立した第2次近衛文麿内閣の松岡外相は,第2次世界大戦が独伊の枢軸側に有利に展開しているうちに日独伊三国同盟を結び,ついでドイツのあっせんによって日独伊ソ四国協商を成立させ,四国協商の圧力でアメリカにアジアから手を引かせて日中戦争を解決し,同時に南進政策を有利にすすめるという独特の構想をいだいていた。…

※「松岡洋右」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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