東禅寺村(読み)とうぜんじむら

日本歴史地名大系 「東禅寺村」の解説

東禅寺村
とうぜんじむら

[現在地名]遠野市附馬牛町東禅寺つきもうしちようとうぜんじ

さるいし川の支流東禅寺川流域に位置し、東は附馬牛村。北から西は山中で、やや南に石上いしがみ(一〇三八・一メートル)がそびえる。村名はかつて所在した東禅寺に由来する。寛永四年(一六二七)の南部利直知行宛行状(三翁昔語)によれば、東禅寺の高四二八石余が八戸弥六郎直義(遠野南部氏)知行地となった。元禄十郡郷帳による〆高は田方三三一石余・畑方一〇七石余。延宝四年(一六七六)四三八石余が八戸蔵人(附馬牛八戸殿)知行分となり(「八戸家系伝記」遠野市立図書館蔵、「遠野市史」)、「邦内郷村志」では八戸蔵人知行分高四三八石余、家数七四、馬二〇〇。

東禅寺村
とうぜんじむら

[現在地名]藤原町東禅寺

藤原岳(一〇〇九・六メートル)の東麓に位置し、村の東を員弁川、南を多志田たしだ川が流れる。村名の由来は、かつて村域に天台宗の大刹東禅寺があり、その名が今に残ったものという。中世には東禅寺御厨があり(神鳳鈔)、天正一二年(一五八四)頃の織田信雄分限帳には、片岡助三・毛利吉蔵らの知行地として、「いなへ 石川東禅寺」とみえる。

江戸時代を通じて桑名藩領。慶安郷帳(明大刑博蔵)には「東禅寺村新田有」とあるが、天明四年(一七八四)手控帳には、東禅寺村(田方一七町一反余、畑方三六町三反余)と同新町(田方二反余、畑方三町余)と併記されるが、文政七年(一八二四)の村明細帳(徳川林政史蔵)には東禅寺村と新町しんまち新田とに別記されており、新田開発により、本村と新町に分れたことが知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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