東松照明(読み)トウマツショウメイ

デジタル大辞泉 「東松照明」の意味・読み・例文・類語

とうまつ‐しょうめい〔‐セウメイ〕【東松照明】

[1930~2012]写真家。愛知の生まれ。本名、照明てるあき。社会派として、迫力のある表現で日本の戦後史を記録した。写真集「太陽の鉛筆」で芸術選奨文部大臣賞、日本写真家協会年度賞を受賞。他に「光る風―沖縄」など。平成7年(1995)紫綬褒章受章。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「東松照明」の意味・わかりやすい解説

東松照明
とうまつしょうめい
(1930―2012)

写真家。愛知県名古屋市に生まれる。本名照明(てるあき)。1954年(昭和29)愛知大学経済学部卒業。大学在学中より写真を撮り始め、卒業後上京。岩波写真文庫のスタッフを経て1956年よりフリーランスとなる。1959年川田喜久治(きくじ)、奈良原一高(いっこう)、細江英公(えいこう)らとセルフエージェンシーVIVOを結成(~1961)。1965~1969年多摩芸術学園写真学科講師、1966~1973年東京造形大学助教授。1972年沖縄に移住、那覇および宮古島に約2年滞在後、帰京。1987年千葉県一宮町に移住。1998年(平成10)長崎市に移住。2010年(平成22)に沖縄市に移住。2012年死去。

 『中央公論』誌に発表した「地方政治家」(1957)などの一連のルポルタージュが評価され、1957年には日本写真批評家協会新人賞を受賞、1961年には同作家賞を受賞するなど、第二次世界大戦後に出発した新世代の写真家の旗手として早くから注目された。1960年代には、在日米軍の存在を通して戦後社会を見据える「占領」シリーズや、消えゆく日本の原風景としての「家」シリーズ、被爆地長崎をテーマとした「NAGASAKI」シリーズなど、同時代の日本社会の根底を深く掘り下げる一連の作品に取り組み、評価を確立する。1960年代後半には写真教育に携わるほか、1967年には自ら出版社写研を設立、写真集『日本』(1967)、『おお! 新宿』(1969)、機関誌『KEN』(1970~1971)などを刊行、また1966年より日本写真家協会主催の「写真100年」展(1968)に編纂委員として参加、同展をもとに刊行された『日本写真史1840―1945』(1971)の編集、執筆にも携わるなど多彩な活動を展開した。

 米軍基地への関心から1960年代末よりたびたび沖縄を取材で訪れ、本土復帰後には、長期滞在した沖縄の風土に日本の原風景を重ね見た写真集『太陽の鉛筆』(1975)で芸術選奨文部大臣賞などを受賞。関心を同時代の社会から日本の基層文化へと広げ、また1970年代後半にはそれまでのモノクロ中心からカラー中心へと転換するなど、沖縄滞在は一つの転機となる。帰京後、1974~1976年には沖縄での経験を踏まえ、荒木経惟(のぶよし)、森山大道(だいどう)らと寺子屋形式の学校、ワークショップ写真学校を開設・運営。以後1980年代にかけては、引き続き沖縄に取材した「光る風――沖縄」(1973~1991年撮影。1979年同題写真集刊行)、「京」(1982~1984)、「さくら」(1979~1989年撮影。1990年写真集『さくら・桜・サクラ120』刊行)などのカラー作品を発表。また1981年には実行委員会形式の写真展「いま!! 東松照明の世界・展」が日本各地を巡回した。1980年代後半から千葉県一宮町の海岸などで撮影された「プラスチックス」(1987~1989年撮影。1989年個展)、「インターフェイス」(1991~1996年撮影。一部先行作品の撮影は1966、1968~1969年。1996年個展)など、俯瞰(ふかん)構図で被写体を直截(ちょくせつ)的にとらえつつ、抽象性を帯びた作品を発表する。

 1990年代にはニューヨークメトロポリタン美術館(1992)、東京国立近代美術館(1996)、東京都写真美術館(1999)などで数多くの新作展や回顧展が開催され、2000年代に入ると「長崎マンダラ」(長崎県立美術博物館、2000)以後、沖縄(2002)、京都(2003)、愛知(2006)、東京(2007)において、「マンダラ(または曼陀羅)」と題し、従来の発表の文脈を解体し、撮影地ごとに新たな視点で作品を編成し直した展覧会を開催。また海外で本格的な回顧展「Shomei Tomatsu:Skin of the Nation」(2004~2006年に、ニューヨーク、サンフランシスコ他欧米5都市を巡回)が開催され、2011年には「写真家・東松照明全仕事」(名古屋市美術館)が開催されるなど、戦後の日本におけるもっとも重要な写真家の一人として、晩年にはその仕事への評価が進められた。1995年に紫綬褒章を受章、2005年に日本写真協会賞功労賞を受賞。

 三度にわたって写真集が刊行され、その後も撮影に取り組んだ「NAGASAKI」シリーズに典型的なように、東松はしばしば一つの主題を繰り返し取り上げ、また晩年には過去の作品を繰り返し検証し、新たな構成で発表を重ねた。こうした写真を「過去の時間」と「現在進行形の時間」という二重の時間性において問い直す営為を通じて、同時代に対してつねにアクチュアルな問題提起を試みる姿勢は、文明論的な批評性をもつ視点や、独特の造形・色彩感覚に基づく映像美とともに、東松の写真家としての仕事を特徴づけるものであった。作品はもとより、発言や行動を通じても後続の世代に大きな影響を与えた。

[増田 玲]

『『〈11時02分〉NAGASAKI』(1966・写真同人社)』『『日本』(1967・写研)』『『サラーム・アレイコム』(1968・写研)』『『おお! 新宿』(1969・写研)』『『OKINAWA沖縄OKINAWA』(1969・写研)』『『戦後派』(1971・中央公論社)』『『I Am A King』(1972・写真評論社)』『『太陽の鉛筆』(1975・毎日新聞社)』『『朱もどろの華――沖縄日記』(1976・三省堂)』『『泥の王国』(1978・朝日ソノラマ)』『『光る風――沖縄』(1979・集英社)』『『昭和写真・全仕事15 東松照明』(1984・朝日新聞社)』『『廃園』(1987・Parco出版)』『『さくら・桜・サクラ120』(1990・ブレーンセンター)』『『長崎〈11:02〉1945年8月9日』(1995・新潮社)』『『日本の写真家30 東松照明』(1999・岩波書店)』『『東松照明1951―1960』(2000・作品社)』『『東松照明写真集 camp OKINAWA』(『沖縄写真家シリーズ「琉球烈像」第9巻』2010・未來社)』『東松照明・土門拳著『Hiroshima Nagasaki Document1961』(1961・原水爆禁止日本協議会)』『東松照明写真、今福龍太編著『時の島々』(1998・岩波書店)』『日本写真家協会編『日本写真史1840―1945』(1971・平凡社)』『上野昂志著『写真家東松照明』(1999・青土社)』『Ian JeffreyShomei Tomatsu (2001, Phaidon Press, London)』『「いま!! 東松照明の世界・展」(カタログ。1981・「いま!! 東松照明の世界・展」実行委員会)』『「東松照明写真展インターフェイス」(カタログ。1996・東京国立近代美術館)』『「日本列島クロニクル――東松照明の50年」(カタログ。1999・東京都写真美術館)』『「長崎マンダラ」(カタログ。2000・長崎県立美術博物館)』『「愛知曼陀羅――東松照明の原風景」(カタログ。2006・愛知県美術館)』『「Tokyo曼陀羅」(カタログ。2007・東京都写真美術館)』『「色相と肌触り 長崎」(カタログ。2009・長崎県美術館)』『「東松照明と沖縄――太陽へのラブレター」(カタログ。2011・沖縄県立博物館・美術館)』『「写真家・東松照明全仕事」(カタログ。2011・名古屋市美術館)』

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百科事典マイペディア 「東松照明」の意味・わかりやすい解説

東松照明【とうまつしょうめい】

写真家。名古屋市生れ。1950年愛知大学経済学部に入学,この頃写真を始める。1954年に上京し〈岩波写真文庫〉に勤務。1956年退社,フリーランスとして活動開始。《人―ひと》(1959年),《占領》(1960年)など,戦後の日本を鋭く批評するシリーズを次々に発表する。1959年奈良原一高細江英公らとともに写真家によるセルフ・エージェンシー〈VIVO〉を結成。1960年代初期に始まる《アスファルト》では,路上のアスファルトに埋まった鉄くず,釘,金属片などを撮影,日常的な物質を見事に作品に昇華させた。1960年代の代表的な写真集には,原爆の戦後の痕跡を長崎に追った《〈11時02分〉NAGASAKI》(1966年),初期の代表作を集めた《日本》(1967年)がある。1972年沖縄に移住。東南アジアでの写真も加えて,後に沖縄の写真を中心とした写真集《太陽の鉛筆》(1975年)を刊行(毎日芸術賞,芸術選奨文部大臣賞)。1974年〈WORKSHOP写真学校〉の設立に参加。また1980年代後半より《プラスチックス》《桜》《京》《インターフェイス》などカラー作品を中心に発表していた。
→関連項目中平卓馬

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「東松照明」の意味・わかりやすい解説

東松照明
とうまつしょうめい

[生]1930.1.16. 愛知,名古屋
[没]2012.12.14. 沖縄,那覇
写真家。1954年愛知大学法経学部卒業。岩波写真文庫に携わったのち,1956年フリーランスとなる。1959年,細江英公や奈良原一高らとともにセルフエージェンシー VIVOを設立。1966年,長崎県長崎市における原子爆弾の記憶をたどった『東松照明写真集〈11時02分〉NAGASAKI』を発表(→原子爆弾投下)。その後沖縄に傾倒し,1972年に移住。その成果の一つとして 1975年に刊行された写真集『太陽の鉛筆』で日本写真家協会年度賞,毎日芸術賞,芸術選奨文部大臣賞を受賞した。1998年には長崎県へ移り,その後 2010年に再び沖縄県へ戻った。アメリカニゼーションを戦後日本社会の最大の特徴ととらえ,長崎や沖縄へカメラを向けながらも,砂浜の漂流物やサクラ,京都といった多彩なテーマでも精力的に作品を制作した。1995年には紫綬褒章を受章し,2000年代には「長崎マンダラ」や「愛知曼荼羅」など,国内外の美術館で数多くの大規模な個展を開催した。

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知恵蔵mini 「東松照明」の解説

東松照明

写真家。本名は照明を「てるあき」と読む。1930年1月16日、愛知県生まれ。愛知大学を卒業後、岩波写真文庫の特別嘱託カメラマンに。その後、フリーとなり、59年に奈良原一高らと写真家集団「VIVO」を設立した(61年解散)。72年、米軍基地の取材で訪れた沖縄に移住。長崎の被爆者を長年撮影したことでも知られ、98年には活動拠点を長崎に移した。晩年は沖縄で病気療養をしていたが、2012年12月14日、肺炎のため那覇市内の病院で死去した。享年82。主な写真集に、沖縄の宮古などの島々を撮った『太陽の鉛筆』、原爆投下から20年後の長崎を写した『〈11時02分〉NAGASAKI』など。海外での評価も高く、戦後日本を代表する写真家として、95年に紫綬褒章を受章している。

(2013-1-11)

出典 朝日新聞出版知恵蔵miniについて 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「東松照明」の解説

東松照明 とうまつ-しょうめい

1930-2012 昭和後期-平成時代の写真家。
昭和5年1月16日生まれ。昭和29-31年岩波写真文庫のスタッフ。34年奈良原一高らとVIVOを結成。社会派カメラマンとして戦後の日本を記録し,次世代の写真家に影響をあたえた。50年日本写真協会年度賞。51年毎日芸術賞,芸術選奨。平成11年日本芸術大賞。平成24年12月14日死去。82歳。愛知県出身。愛知大卒。本名は照明(てるあき)。写真集に「太陽の鉛筆」「光る風―沖縄」など。

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