東廻(回)海運(読み)ひがしまわりかいうん

改訂新版 世界大百科事典 「東廻(回)海運」の意味・わかりやすい解説

東廻(回)海運 (ひがしまわりかいうん)

日本海沿岸の港を出帆し,津軽海峡を経て太平洋に出て本州沿いを南下し,房総半島を迂回して江戸に至る海運のことで,西廻海運に対する。東北地方の太平洋沿岸から江戸方面への海上輸送は江戸開府以後に始まる。慶長(1596-1615)末年,盛岡藩の蔵米が三陸沿岸から江戸に廻漕されたのが初見で,おそらく大坂の陣に備えての南部氏の兵糧米の輸送であった。元和期(1615-24)に入ると盛岡藩の蔵米などが三陸諸港から江戸に恒常的に輸送されるようになった。同じころ仙台藩は北上川を大改修し河口の石巻湊を江戸廻米の積出港とするに及んで,同湊からの仙台・盛岡両藩の江戸廻米(廻米)が本格化した。さらに1625年(寛永2)青森湊が開港し,東廻航路陸奥湾の諸湊と結ぶようになった。48年(慶安1)には出羽六郷氏の廻船が太平洋側から日本海側に入っている。このころまでの江戸廻米船は1,2月の冬船が多く,東北各地を出た船は常陸那珂湊(なかみなと)まで南下し,同湊から涸沼(ひぬま)川を経て利根川に入るか,海上を銚子湊まで南下して利根川に入り,積荷は川船で江戸に運ばれた。

 やがて房総半島を迂回し江戸に直接に廻漕する,いわゆる大廻りの東廻航路が開拓されてくる。寛文(1661-73)初期に弘前藩や八戸藩の一部廻米船が大廻りで江戸に達していたが,この大廻りの東廻海運を確立したのが江戸商人の河村瑞賢である。70年,幕府より陸奥国信夫(しのぶ)・伊達(だて)両郡の幕領米の江戸廻漕を命ぜられた瑞賢は,次の方策によった。(1)おもに尾張,伊勢などの廻船を廻漕船雇い,幕府の幟(のぼり)をつけ事実上の官船とする。(2)冬船を改め夏船とし,航路は房総半島を迂回し,相州三崎か伊豆下田に向かい,そのうえで南西の風を待って江戸湾に入る。(3)常陸平潟,那珂湊,銚子,小湊などの浦々に番所を設置し,船の遅速,水夫(かこ)の勤惰,海難の原因などの調査を行わせ,さらに沿岸の諸侯,代官に廻船救護にあたらせるなどの安全策をとる。以上の東廻海運策の特徴は,廻漕船を幕府直雇いとし,従来の商人請負に伴う高率請負料を低運賃に改めたことと,江戸直航路の開拓にあった。以後,幕府の江戸廻米はこの方式となったばかりでなく,東廻航路沿いの諸藩の江戸廻米もこれに倣うようになった。この東廻海運の刷新により,元禄期(1688-1704)ごろになると日本海沿岸からの江戸廻米も増加してきた。1714年(正徳4)幕府は奥州,出羽の幕領米を東廻りによる江戸廻米と決め,20年(享保5)には奥羽2国のほか越前,能登,越後の幕領米を東廻りで江戸に廻漕するよう命じている。しかし,日本海沿岸からの江戸廻米は廻船の調達などで困難が多く,西廻海運が優先した。東廻海運の廻船は仙台藩の江戸廻米に従事した石巻穀船などの地船に,三陸沿岸や蝦夷地の海産物,材木などの輸送にあたった江戸,大坂など他国廻船が江戸中期以降加わり,幕末期には八戸廻船など地船の大型化がみられた。明治初年,新政府が石巻商社などを通して海運を支配下に入れたが,順調な発展がみられなかった。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の東廻(回)海運の言及

【奥羽海運記】より

…河村瑞賢の東廻・西廻両航路の刷新事業について記した基本的文献。新井白石著。1巻。水陸交通の重要性を述べた後,瑞賢が1670年(寛文10)奥州信夫郡の幕領米数万石,つづいて72年羽州村山郡の幕領米を江戸に直漕するよう命ぜられ,彼が現地踏査を経て提出した建議によって無事江戸に回漕した事情およびそれに伴う東廻・西廻両航路の刷新について記している。《新井白石全集》《日本経済大典》などに収録。【渡辺 信夫】…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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