東川(読み)ひがしがわ

日本歴史地名大系 「東川」の解説

東川
ひがしがわ

香美郡東南半一帯を荘域とした大忍おおさと庄の一地域で、現香我美町の東南部、夜須やす町の北東部、安芸郡芸西げいせい村の北部にあたる。「東河」とも書かれた(安芸文書)

永仁二年(一二九四)二月一〇日付の専当新左衛門尉等起請文(同文書)に「東川四所之宮」、文保二年(一三一八)二月一〇日の大忍庄政所下知状(同文書)に「大忍庄東川分年貢銭相積之間」とみえ、鎌倉時代後期には大忍庄内で東川の呼称が用いられていたことが知られる。この東川には、前記永仁二年の起請文や文和四年(一三五五)三月一一日付東川村田地斗代減免状案(同文書)に「東川村専当百姓等中」とみえることにうかがわれるが、大忍庄在地支配の末端をになう荘官の専当が置かれていた。永和五年(一三七九)二月二五日の沙弥道本国弘名譲状案(同文書)には「譲与大里庄東川専当職国弘名事」とみえ、東川一帯の専当職を国弘名の名主藤兵衛入道道本がもっており、買得した田畠山林荒野を女姫犬に譲っている。

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改訂新版 世界大百科事典 「東川」の意味・わかりやすい解説

東川[町] (ひがしかわ)

北海道中央部,上川支庁上川郡の町。人口7859(2010)。町域西部は上川盆地南東部の水田地帯,東部は大雪山の西斜面を占め,南境を石狩川支流の忠別川が流れる。忠別川沿いの中忠別に市街地が発達し,北西に接する旭川市からバスが通じる。1895年から忠別原野への入植が始まり,1903年には土功組合が設立され,以後原野の水田化がすすんだ。現在も稲作を主とする農業の町で,水田が広く,野菜,小麦,アズキの生産,養豚,養鶏も行われる。忠別川最上流には天人峡旭岳旭岳温泉勇駒別(ゆこまんべつ)温泉)などの観光地があり,大雪山国立公園に含まれる。
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東川 (とうせん)
Dōng chuān

中国,雲南省北東部,金沙江支流の小江沿岸に発達した市。人口29万(1994)。中国最大の銅生産地。〈雲銅〉として1800余年前から採掘され,銅銭や〈斑銅(はんどう)〉などの青銅器等に供されてきた。漢代には堂琅(どうろう)県がおかれ,蜀の朱提郡,隋の恭州などに変わったが,〈東川〉の名は宋代大理の一郡としてあらわれる。元には軍民府や路,明・清には府がおかれた。解放後,1954年行政区としての東川鉱区が設けられ,58年市に改められた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「東川」の意味・わかりやすい解説

東川
とうせん / トンチョワン

中国、雲南(うんなん)省北東部の昆明(こんめい)市の市轄区。金沙江(きんさこう)支流の小江流域に位置する。常住人口27万1917(2010)。2000年前から「雲銅」と称する良質の銅の産地として知られた。1954年北西部の湯丹山(とうたんざん)を中心とする中国最大級の銅山を開発するため、会沢(かいたく)県から東川鉱区が分離され、1958年に市制を施行したが、1998年に昆明市の一区となった。同鉱山の鉱石の銅含有率は25~50%といわれる。貴昆線(貴陽(きよう)―昆明)の四塘子(しとうし)から支線が通じる。

[青木千枝子・河野通博・編集部 2017年2月16日]

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事典・日本の観光資源 「東川」の解説

東川

(北海道上川郡東川町)
美しい日本のむら景観100選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の東川の言及

【四川[省]】より

…益州は江南につぎ第2の地域とされ,その首都成都には府治も置かれた。さらに,益州には剣南道が設けられ,8世紀にはこれを二分し,岷江流域を西川,それ以東を東川とした。このころ,後漢時代に手がけられた嘉陵江の水利工事も再度おこなわれ,上流部の略陽より下流の航行が可能となった。…

※「東川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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