東原庠舎跡(読み)とうげんしようしやあと

日本歴史地名大系 「東原庠舎跡」の解説

東原庠舎跡
とうげんしようしやあと

[現在地名]多久市多久町 東の原

椎原しいばる山西麓近く、みなみ山・鷽の越うそのごえ源流とする唐堀からほり川の東に、元禄一二年(一六九九)四代領主多久茂文が建立した朱子学派の学校。東の原ひがしのはるにあるので東原庠舎と通称した。銭亀ぜんがめ(通称亀山きざん下鶴しもづる(通称鶴山かくざんの間にみえるので鶴山書院ともよばれ、元禄一二年一二月の御屋形日記(多久家文書)には「多久御学文」とも記されている。

茂文は初め孔子廟造営を思い立ったが、佐賀藩主・幕府からの許可がなかなか得られなかったので、まず学校を建て、清国伝来と伝えられる唐金(青銅)製の孔子と、その弟子の四哲像を配祀していたが、宝永五年(一七〇八)聖廟が完成すると、四哲像はそこに移され、孔子像も京都で新たに鋳造させた。

学舎も明和年間(一七六四―七二)に聖廟の傍ら西南に移った。明治二年(一八六九)、佐賀藩庁からの達しで多久郷学校または東原郷校と改称し、同四年多久小学校、同七年知新小学校となり、この頃校舎が旧武具庫の南に新築され、廃舎となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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