来島城跡(読み)くるしまじようあと

日本歴史地名大系 「来島城跡」の解説

来島城跡
くるしまじようあと

[現在地名]今治市来島

来島は慶長六年(一六〇一)まで海賊衆来島村上氏の居城で、全島城塞であった。現在、波止浜はしはま港に面した島の南岸には人家が密集しているが、北岸一帯は絶壁で、その下が岩礁になっており、おびただしい数の築城遺構である柱穴が残っている。その形は大小さまざまであるが、なかには一辺一メートルに近い方形の穴もある。また島の上の館跡と推定される所には、堅固に築かれた石垣が四段にわたって残り、付近には矢竹が密生している。

来島海峡は芸予諸島中、西国から畿内に通ずる内海の重要な水路の一つで、しかも満干時の潮流は最強時には一〇ノットと激しく、潮流に逆らっての帆船航行ははなはだ困難であった。この来島海峡の咽喉を扼する来島は、海賊城にふさわしい天然の要害であった。

来島村上氏が来島を本拠とするようになった時期は明らかでないが、来島の名は宝徳三年(一四五一)二月二三日付河野教通書状(写)(小早川家文書)

<資料は省略されています>

とあるのを初見とする。また、来島に在島する村上氏がいつ頃から来島氏と称されるようになったかも明らかでない。越智おち日吉ひよし(現今治市)大浜八幡宮の大永四年(一五二四)棟札のなかに、地頭村上常陸守吉堅の嫡女が「在来島城、村上五郎四郎母」と記され、当時はまだ来島氏を称していなかったようである。ところが天文一〇年(一五四一)一〇月一一日付河野弾正少弼通直書状(三島家文書)には、はっきりと来島氏と記されているところから、遅くともこの頃までに、来島氏と称されるようになったのであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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