村瀬栲亭(読み)むらせこうてい

精選版 日本国語大辞典 「村瀬栲亭」の意味・読み・例文・類語

むらせ‐こうてい【村瀬栲亭】

江戸中・後期の儒学者。名は之熙(ゆきひろ)。字は君績。通称嘉右衛門。別号小華陽・神州。京都の人。武田梅龍に古注学を学び、秋田侯佐竹氏に召されて藩儒となり、国政参与した。考証を重んじた随筆を多く著わし、詩文書画をもよくした。著に「芸苑日渉」「栲亭稿」「学庸集義」など。延享三~文政元年(一七四六‐一八一八

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デジタル大辞泉 「村瀬栲亭」の意味・読み・例文・類語

むらせ‐こうてい〔‐カウテイ〕【村瀬栲亭】

[1744~1819]江戸後期の儒学者。京都の人。名は之煕ゆきひろあざな君績くんせき。栲亭は号。武田梅竜に古注学を学ぶ。秋田藩に仕えて藩政関与晩年官職を辞して京都に戻った。博学で知られ、詩文ともに優れた。著作に「芸苑日渉」「栲亭稿」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「村瀬栲亭」の意味・わかりやすい解説

村瀬栲亭
むらせこうてい
(1746―1819)

江戸中期の儒学者。延享(えんきょう)3年京都に生まれる。名は之煕(ゆきひろ)、字(あざな)は君績(くんせき)、通称嘉右衛門(かえもん)。栲亭と号す。折衷派の武田梅龍(たけだばいりゅう)(1716―1766)について『管子(かんし)』を学ぶ。考証を重んじ博学にして、中年以後はとくに詩文書画をよくした。秋田侯佐竹氏に召されて藩儒となり、挙藩の敬服を受けた。晩年辞して京都に帰り、文政(ぶんせい)元年12月6日没す。著書は『栲亭文集』『論語集義』『管子補註(ほちゅう)』『芸苑日渉(げいえんにっしょう)』『楓樹詩纂(ふうじゅしさん)』その他がある。

[渡部正一 2016年7月19日]

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朝日日本歴史人物事典 「村瀬栲亭」の解説

村瀬栲亭

没年:文政1.12.6(1819.1.1)
生年:延享1.5.21(1744.7.1)
江戸時代後期の漢学者。京都の人。名は之煕,字は君績,通称は掃部,嘉右衛門など。栲亭は号。本姓は源。医を堀元昌,儒を武田梅竜に学ぶ。明和3(1766)年,師梅竜のあとをうけ,妙法院門跡の侍講となるが,のちに病をもって辞す。天明3(1783)年,秋田藩より聘され,世子侍読となる。その後,藩政に参与,総奉行上席に任命され,改革にとりかかるが挫折。寛政3(1791)年には隠居,京都に帰り文人としての生活をおくる。詩文,書画をよくし,考証随筆『芸苑日渉』にその博識ぶりが窺える。<参考文献>妹尾和夫『村瀬栲亭』

(高橋昌彦)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「村瀬栲亭」の解説

村瀬栲亭 むらせ-こうてい

1744-1819* 江戸時代中期-後期の儒者。
延享元年5月21日生まれ。武田梅竜にまなぶ。天明3年(1783)出羽(でわ)久保田藩(秋田県)にまねかれ,藩政に参加。晩年は京都にもどる。詩文,書にすぐれ,考証随筆「芸苑日渉」12巻がある。文政元年12月6日死去。75歳。京都出身。名は之煕(ゆきひろ)。字(あざな)は君績。通称は嘉右衛門。

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367日誕生日大事典 「村瀬栲亭」の解説

村瀬栲亭 (むらせこうてい)

生年月日:1744年5月21日
江戸時代中期;後期の漢学者
1819年没

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