村庄(読み)むらくしのしよう

日本歴史地名大系 「村庄」の解説


むらくしのしよう

現浜松市西部、浜名湖東岸の庄内しようない半島およびその基部を占めた最勝光さいしようこう(現京都市東山区)領、のち京都東寺領庄園。室町中期には村櫛郷ともみえる(応永一三年四月一一日「最勝光院方評定引付」東寺百合文書、以下同文書は集合文書名を省略)。正中二年(一三二五)には東郷西郷に分れており(同年三月日「最勝光院領庄園目録」宮内庁書陵部所蔵文書)、嘉暦四年(一三二九)には庄内に西郷・大村櫛おおむらくし呉松くれまつ和地わじ伊佐地いさじがみえる(同年四月二〇日「村櫛庄年貢算用状案」教王護国寺文書)。また永禄一二年(一五六九)徳川家康は当庄の領家方代官を出自とする武士である大沢基胤に「本知行、領家方三ケ分」として崎村櫛さきむらくし和田わだ・無木・上田かみた・石丸参ケ壱・呉松之内・和地之内・伊佐地・佐浜さはま内山うちやまおよび尾奈おな(現三ヶ日町)の米銭を安堵しており(同年四月一二日「徳川家康判物写」譜牒余録後編)、これらはほぼ庄域であったと考えられる。

前掲正中二年三月日の最勝光院領庄園目録に「村櫛庄東郷・西郷」とみえ、領家は北条重時跡で、本家得分は本年貢一〇〇石と綾被物一重(七月御八講料)だが、近年現地収納高で六〇石に減少し、確実なところでは五〇石ほどとある。同目録は東寺百合文書に案文がある。立庄時期は不明だが、承安三年(一一七三)の最勝光院建立後まもなくその所領も設定されたと考えられ、当庄も鎌倉時代初期には最勝光院領となっていたと推定される。嘉暦元年三月、後醍醐天皇によって最勝光院は東寺に寄進され、その所領も東寺領となった。正中二年の目録はその前提として作成されたものである。嘉暦四年四月二〇日の村櫛庄年貢算用状案(教王護国寺文書)によれば、本家寺用米である呉松分・和地分の年貢高はいずれも六石六斗六升六合六勺で、本来各一〇石であった本家年貢が地頭方二・領家方一の割合で分割されている。一方、領家方は村別でなく、刑部僧都坊・次郎兵衛給・道性・多手別当の四人に二〇石が割当てられている。年貢高は合計四九石九斗三合、代銭三五貫文であった。

村庄
むらのしよう

現西郷町の北部中村なかむら川・元屋がんや川流域を中心に、布施ふせ村をも含む地域に存在したと推定される比叡山無動むどう(現滋賀県大津市)領庄園。天福二年(一二三四)八月の慈源所領注文写(華頂要略)に無動寺領の寄進所の一つとして「村庄 所当漆一斗」とみえる。村庄の「村」は武良むら、すなわち古代隠地おち郡武良郷につながるもので、中村別符の成立などを経て同郷が再編成され成立したものと考えられる。同じく無動寺領を書上げた建暦三年(一二一三)二月の慈鎮所領譲状案(同書)にみえないこと、また中村別符が文治四年(一一八八)にその存在を確認できること(「吾妻鏡」文治四年七月一三日条)などから、村庄の成立と無動寺への寄進は建暦三年から天福二年までの間のことと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

普及版 字通 「村庄」の読み・字形・画数・意味

【村庄】そんしよう

村落

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