中国の政治家。四川(しせん)省出身。父は初期の共産党員で、1927年の南昌蜂起(なんしょうほうき)(南昌暴動)に参加、のち1931年に海南島で国民党に捕らえられて刑死した李碩勲(1903―1931)。母も初期の党員。1939年、周恩来夫妻に烈士の子として引き取られ、張家口工業専門学校などで学び、1945年入党。1948年モスクワ動力大学に留学、1955年帰国して吉林(きつりん)省豊満発電所技師長となり、1966年以降北京(ペキン)給電局長などを歴任、1979年電力工業部副部長、1981年部長となって中央政界に入る。1982年党中央委員、1985年中央政治局委員、中央書記処書記、また国家教育委員会主任を兼任、1987年中央政治局常務委員に任じ、最高指導者の一人となった(~2002)。そのあと国務院総理(首相)代行に就任、1988年4月中華人民共和国第4代目の国務院総理に任命された(~1998)。代表的なテクノクラート幹部といわれた。1989年(平成1)来日。長く総理の職にあって、1998年第二次天安門事件の処理にあたったが、同年、全国人民代表大会(全人代)常務委員会委員長に就いた(~2003)。2003年政界を引退。
[安藤彦太郎 2019年8月20日]
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1928~
中国現代の政治家。四川省成都の人。革命遺児として11歳のときに周恩来夫妻の養子となる。1945年中国共産党に入党し,48~55年ソ連に留学。帰国後一貫して水利・電力部門で昇進を重ね,82年より中央委員,83年国務院副総理,85年より中央政治局委員,87年より中央政治局常務委員・国務院総理を歴任。89年の天安門事件に際して学生運動の鎮圧を指示し,改革・開放についても保守派と目されている。他方,98~2003年まで常務委員会委員長を務めた全国人民代表大会(全人代)では,その立法・監督機能強化を促進した。2003年3月の第9期全人代第5回会議を最後に権力の中枢から引退。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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(2019-7-25)
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