杉田玄白
すぎたげんぱく
(1733―1817)
江戸中期の蘭方医(らんぽうい)、蘭学者。名は翼(よく)、字(あざな)は子鳳、鷧斎(いさい)のち九幸(きゅうこう)と号し、玄白は通称。学塾を天真楼といい、晩年の別邸を小詩仙堂(しょうしせんどう)という。若狭(わかさ)国(福井県)の小浜(おばま)藩酒井侯の藩医杉田甫仙(ほせん)(1692―1769)の子として江戸の藩邸中屋敷に生まれ、難産であったため、そのとき母を失う。宮瀬竜門(りゅうもん)(1720―1771)に漢学を、幕府医官西玄哲(1681―1760)に蘭方外科を学び、藩医となる。同藩の医師小杉玄適を通じ、山脇東洋(やまわきとうよう)の古医方の唱導に刺激を受け、また江戸参府のオランダ商館長、オランダ通詞(つうじ)吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)(幸左衛門)らに会い、蘭方外科につき質問し、やがてオランダ医書『ターヘル・アナトミア』を入手した。1771年(明和8)春、前野良沢(まえのりょうたく)、中川淳庵(なかがわじゅんあん)らと江戸の小塚原(こづかっぱら)の刑場で死刑囚の死体の解剖を実見した。その結果『ターヘル・アナトミア』、正しくはドイツの解剖学者クルムスが著し、オランダのディクテンGerardus Dicten(1696ころ―1770)のオランダ語訳した『Ontleedkundige Tafelen』(『解剖図譜』)の精緻(せいち)なるを知り、同志とともに翻訳を決意して着手する。4か年の努力を経て、1774年(安永3)『解体新書』5巻(図1巻・図説4巻)を完成し、刊行の推進力となった。この挙は江戸における本格的蘭方医書の翻訳事業の嚆矢(こうし)であって、日本の医学史上に及ぼした影響すこぶる大きく、その後の蘭学発達に果たした功績は大きい。彼ら同志の翻訳の苦心のありさまは晩年の追想『蘭学事始(ことはじめ)』に詳しい。主家への勤務をはじめ、多数の患者を診療し、患家を往診する余暇に、学塾天真楼を経営し、大槻玄沢(おおつきげんたく)、杉田伯元、宇田川玄真(1770―1835)ら多数の門人の育成に努めた。また蘭書の収集に意を注いで、それを門人の利用に供するなど蘭学の発達に貢献した。前記の訳著のほかに奥州一関(いちのせき)藩の医師建部清菴(たけべせいあん)との往復書簡集『和蘭(おらんだ)医事問答』(1795)をはじめ、『解体約図』(1773)『狂医之言』(1773)『形影夜話(けいえいやわ)』(1810)『養生七不可(ようじょうしちふか)』などにおいて医学知識を啓蒙(けいもう)し、『乱心二十四条』『後見草(あとみぐさ)』(1787成立)『玉味噌(たまみそ)』『野叟独語(やそうどくご)』(1807成立)『犬解嘲(けんかいちょう)』『耄耋(ぼうてつ)独語』など多くの著述を通じて、政治・社会問題を論述し、その所信を表明した。
彼の日記『鷧斎日録』をみると、「病論会」なる研究会を定期的に会員の回り持ち会場で開催して、医学研鑽(けんさん)に努めたようすをうかがうことができる。若いころに阪昌周(さかしょうしゅう)(?―1784)に連歌(れんが)を習って、自ら詩歌をつくり、宋紫石(そうしせき)、石川大浪(いしかわたいろう)(1765―1818)ら江戸の洋風画家たちとも交わって画技も高かったことは、その大幅で極彩色の「百鶴(ひゃっかく)の図」をはじめとして、戯画などを通じてうかがい知ることができる。
蘭方医学の本質を求めて、心の問答を展開した相手建部清菴の第5子を養子に迎え、伯元と改称せしめ家塾を継がせた。実子立卿(りゅうけい)には西洋流眼科をもって別家独立させ、その子孫には成卿(せいけい)・玄端(げんたん)ら有能な蘭学者・蘭方医が輩出、活躍している。石川大浪が描いた肖像は老境の玄白像をよく伝えている。文化(ぶんか)14年4月17日、江戸で病没、85歳。墓は東京都港区虎ノ門、天徳寺の塔頭(たっちゅう)、栄閑院(通称猿寺)にあり、東京都史跡に指定されている。
[片桐一男 2016年5月19日]
『片桐一男著『杉田玄白』(1971/新装版・1986・吉川弘文館)』
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杉田玄白
没年:文化14.4.17(1817.6.1)
生年:享保18.9.13(1733.10.20)
江戸中期の蘭方医,瘍医(外科医)。『解体新書』の訳業によって著名。これはわが国で刊行された初めての蘭書の訳書である。名は翼,字は子鳳。玄白は通称。父は若狭国(福井県)小浜藩外科医,杉田甫仙。生まれは江戸小浜藩邸。難産だったため,生まれたときは死んだものとして布に包んで置かれ,周囲は母親を救おうとしたが結局死亡,改めて子を見ると生きており,男子だったので愁眉を開いたという。18歳から幕府医官西玄哲について蘭方外科を学び,また宮瀬竜門に経史を学ぶ。宝暦3(1753)年小浜藩医となる。39歳の明和8(1771)年3月4日,江戸千住骨ケ原(小塚原)で腑分(解剖)に立ち合う。この日以降,ドイツ人クルムスの解剖学書のオランダ語版,当時の通称『ターヘル・アナトミア』の翻訳を思い立ち,前野良沢,中川淳庵らと共に訳業に励む。3年の日時を経て完成,安永3(1774)年『解体新書』刊行。享和2(1802)年『形影夜話』を書く。文化7(1810)年刊行。同12年,83歳で『蘭学事始』成る。他に『大西瘍医書』『養生七不可』『和蘭医事問答』『後見草』『野叟独語』『犬解嘲』などの著訳書がある。学塾天真楼を経営し,大槻玄沢,宇田川玄真らを育てた。家業は養子伯元が継ぎ,実子立卿は別家を立てた。 玄白は平賀源内などと同時代の人であり,家業が蘭方外科だったこともあって,蘭学に興味を持った。明和3年,オランダ商館長の江戸参府中,前野良沢に連れられて大通詞西善三郎に会い,オランダ語の難しさを知って学習を一時諦めた。明和8年春,中川淳庵が『ターヘル・アナトミア』(およびバルトリンの解剖書)をオランダ商館長の定宿から持参し,玄白はそれを藩に買ってもらう。その図が精細でおそらく実を写したものであることを知り,実物と比較してみたく思っているところへ,骨ケ原での腑分の知らせを受け,淳庵,良沢にも知らせ,この書を持って骨ケ原に赴く。たまたま良沢もまったく同じ本を持ってきており,その奇遇に驚く。帰り道にこの書を翻訳すればきわめて有益であろう,善は急げと,翌日から良沢の家に集まり,訳業が始まる。その苦労,子細は『蘭学事始』に感動的に記される通りである。このあとわが国の蘭学は急速に進み,玄白は蘭学の祖として有名になる。『解体新書』で導入された訳語に神経,軟骨などがあり,わが国の西洋医学・解剖学の基礎を築いた。 玄白は実地に優れた人物であることは,何人かの人たちと共同し,当時としては幕府に遠慮のあった蘭書の訳業を,短期間に成就させたことでもわかる。蘭学に多大の貢献をしたことは疑いを入れないが,しばしば玄白の事跡を日本の解剖の始まりとする誤解がある。わが国最初の官許の解剖は京都の山脇東洋により,骨ケ原腑分の17年前,宝暦4(1754)年のことである。玄白はこれをよく知っていた。墓所は江戸芝の天徳寺の塔頭栄閑院。
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杉田玄白
すぎたげんぱく
[生]享保18(1733).9.13. 江戸
[没]文化14(1817).4.17. 江戸
江戸時代中・後期の蘭方医,蘭学者。父は若狭国小浜藩酒井侯の藩医杉田甫仙。名は翼,字は子鳳,い斎のち九幸と号し,玄白は通称。幕府医官西玄哲の門で蘭方外科を修め,宮瀬龍門のもとで漢学を学んで藩医となった。京都の山脇東洋の古方派に強く刺激され,医学の進歩発展への意欲をいだいた。訳官吉雄幸作 (耕牛) がオランダ貢使に随行してきたときオランダ外科を学び,蘭医学の精緻なことを知った。まもなく蘭訳解剖書『ターヘル・アナトミア』を入手する一方,明和8 (1771) 年小塚原処刑場にて死体解剖を参観し,蘭医書の正確さに驚き,翌日から前野良沢宅にて良沢,中川淳庵らとともに翻訳に着手した。訳書『解体新書』本文4巻,解体図1巻は改稿 11回3年半を費やし安永3 (74) 年に完成した。このときの翻訳の苦心の様子は彼の晩年の著作『蘭学事始』 (1815成稿) で詳細に追想されている。また,患者を診療するかたわら,学塾天真楼を開き大槻玄沢,杉田伯元ら多数の門人を育成し,蘭学の発達に貢献した。その他の著作『瘍科大成』『形影夜話』『狂医之言』『養生七不可』『和蘭医事問答』『後見草』『い斎日録』『乱心二十四条』『玉味噌』『野叟独語』。なお『蘭学事始』は明治2 (69) 年福沢諭吉が刊行した。
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杉田玄白 すぎた-げんぱく
1733-1817 江戸時代中期-後期の蘭方医。
享保(きょうほう)18年9月13日生まれ。若狭(わかさ)(福井県)小浜(おばま)藩医。西玄哲(げんてつ)にまなぶ。明和8年江戸小塚原での囚人の解剖見学を機に,前野良沢(りょうたく)らとオランダ医書「ターヘル-アナトミア」を翻訳し,安永3年(1774)「解体新書」と題して刊行。家塾天真楼で大槻(おおつき)玄沢らを育てた。文化14年4月17日死去。85歳。名は翼(たすく)。字(あざな)は子鳳。号は鷧斎(いさい),九幸。著作に「蘭学事始(ことはじめ)」など。
【格言など】己れ上手と思わば,はや下手になるの兆(きざし)としるべし(「形影夜話」)
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杉田玄白【すぎたげんぱく】
江戸後期の医学者,蘭学者。名は翼(たすく),号は【い】斎(いさい),九幸。若狭小浜藩医。1771年前野良沢,中川淳庵と江戸小塚原刑場で刑死体の解剖を観察,蘭書《ターヘル・アナトミア》の正確さに驚き,《解体新書》訳述を遂行,蘭学の基礎を築いた。文才にすぐれ随筆が多く,《蘭学事始》《形影夜話》《野叟(やそう)独語》などの著書がある。子の立卿〔1786-1845〕,孫の成卿〔1817-1859〕も蘭方医として名高く,立卿は特に眼科にすぐれ,成卿は幕府の訳官,蕃書調所の教授として活躍した。
→関連項目宇田川榛斎|朽木昌綱|小石元俊|ツンベリー|吉雄耕牛
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杉田玄白
すぎたげんぱく
1733〜1817
江戸後期の蘭学医
若狭(福井県)小浜藩医。初め外科医術・漢籍を学んだが,西幸作を通じオランダ外科を知りその精密さに驚き,前野良沢・中川淳庵らと小塚原刑場で死刑囚の解剖に立会い,ドイツ人クルムス著『解剖図譜』のオランダ語訳(『ターヘル‐アナトミア』)からの翻訳を決意,良沢らとともに1774年『解体新書』として刊行した。その苦心を追懐したのが『蘭学事始』である。
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すぎた‐げんぱく【杉田玄白】
江戸後期の蘭方医、蘭学者。若狭(福井県)小浜藩医杉田玄甫の子。本名は翼、字(あざな)は子鳳、号は鷧斎(いさい)、九幸翁。前野良沢らとオランダの外科医書「ターヘル‐アナトミア」を翻訳し、安永三年(一七七四)「解体新書」として刊行、蘭学の発達に貢献した。著「蘭学事始」「形影夜話」など。享保一八~文化一四年(一七三三‐一八一七)
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デジタル大辞泉
「杉田玄白」の意味・読み・例文・類語
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杉田玄白 (すぎたげんぱく)
生年月日:1733年9月13日
江戸時代中期;後期の蘭方医;外科医
1817年没
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すぎたげんぱく【杉田玄白】
1733‐1817(享保18‐文化14)
江戸中期の蘭方医。若狭国小浜藩医杉田玄甫(甫仙)の子として江戸牛込の小浜藩邸で生まれた。名は翼(たすく),字は子鳳(しほう),号は鷧斎(いさい)といい,晩年には九幸翁とも号した。堂号を小詩仙堂,天真楼といった。官医西玄哲にオランダ流外科を学んだが,その水準にあきたらず,同藩の僚友小杉玄適が京都の山脇東洋に学んで江戸に帰り,東洋の人体解剖や京都の古医方派の動向を伝えたのに刺激され,家業とする外科領域で新しい道を開く志を立てた(22歳)。
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世界大百科事典内の杉田玄白の言及
【医学】より
…原著は,ドイツ人クルムスJohann Adam Kulmusの解剖図譜のオランダ語版《ターヘル・アナトミア》である。この訳業のきっかけを与えたのは,1771年(明和8)3月4日,江戸小塚原刑場であった解剖(腑分け)を,杉田玄白,前野良沢,中川淳庵が見学し,その際持参したクルムスの図譜の正確なことに驚いて,翻訳をすることに意見が一致し,さらに桂川甫周,石川玄常,嶺春泰,桐山正哲らも加わって集団討議を繰り返しながらできあがったものである。その経緯は,杉田玄白の《蘭学事始》に詳しい。…
【解体新書】より
…1774年(安永3)刊。1771年(明和8)の骨ヶ原(小塚原)の腑分けがきっかけとなって,当時《ターヘル・アナトミア》と俗称されたドイツ人クルムスJ.Kulmusの解剖書の蘭訳本(1734刊)を日本訳したもので,江戸の杉田玄白,前野良沢ら蘭学グループが参画したが,良沢の名前は記されていない。これは幕府の出版取締りをおしはかって,もし幕府のとがめを受けたとき,先輩で盟主格の良沢に累を及ぼさないための配慮とみられる。…
【蘭学事始】より
…江戸蘭学の発端と発展のさまを回顧した杉田玄白晩年の懐古録。《和蘭事始(オランダことはじめ)》《蘭東事始(らんとうことはじめ)》の題名の写本で伝わり,1869年(明治2)《蘭学事始》(記録にはこの題名もあった)の題名で玄白の曾孫(養子)杉田廉卿(れんきよう)によって2巻の和装本で木版刊行された。…
※「杉田玄白」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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