朱一貴(読み)しゅいっき(英語表記)Zhū Yī guì

改訂新版 世界大百科事典 「朱一貴」の意味・わかりやすい解説

朱一貴 (しゅいっき)
Zhū Yī guì

中国,清朝初期台湾で起こった反乱の主謀者の一人。福建省長泰県の人。生没年不詳。幼名は朱祖。はやく台湾に渡り,台厦道の役所で雑役夫となったりしたが,のち鳳山県で養鴨を営み衆望を得た。このころ台湾では政治が廃弛し,知県が農民重税を課し酷刑に処すなどのことが重なったので,1721年(康煕60)彼らは朱一貴を首領に反乱を起こした。これに広東人杜君英らも加わりほとんど全台湾が一時反乱側に占領された。しかし福建人,広東人の対立により内部分裂を起こしたうえ,清朝軍の反撃にあい,彼は捕らえられ処刑された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「朱一貴」の意味・わかりやすい解説

朱一貴
しゅいっき
(?―1721)

中国、清(しん)代、康煕(こうき)年間最大の農民反乱の首領。福建省長泰県の人。台湾へ移住し、鳳山(ほうざん)県で養鴨(おう)を生業とした。社交にたけ、人望があった。台湾は鄭成功(ていせいこう)一族の統治のすえ1683年清朝に併合されたが、当初より内地の2倍以上の酷税に苦しんだ。1721年春、台湾知府の王珍が重税を徴収し、同時に秘密結社と山林盗伐の百数十名を逮捕したのを契機に農民が蜂起(ほうき)した。彼は首領に推され、明(みん)朝の末裔(まつえい)と名のり、全島を占領するや中興王と称し、永和と建元した。しかし、ほどなく大陸から清が反攻し、農民軍内部にも分裂が起こり、農民政権は瓦解(がかい)し、彼は北京(ペキン)へ送られて処刑された。台湾の反清闘争の先駆として名高い。

[安野省三]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「朱一貴」の意味・わかりやすい解説

朱一貴
しゅいっき
Zhu Yi-gui; Chu I-kuei

[生]?
[没]康煕60(1721)
中国,清代の台湾反乱の指導者。福建省長泰の人。幼名は祖。早くから台湾に移住し,鳳山県で飼鴨を生業とした。清の台湾統治が乱れ,竹木を私伐するもの 200名余を捕えて酷刑に処したことを契機に,康煕 60 (1721) 年5月反乱を起した (朱一貴の乱) 。明の国姓と同じところから,明室の子孫と称し,自立して中興王と称し,年号を永和と定めた。同年6月に清の大軍の台湾進攻で敗れ,処刑された。

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