本庄宗秀(読み)ほんじょう・むねひで

朝日日本歴史人物事典 「本庄宗秀」の解説

本庄宗秀

没年:明治6.11.20(1873)
生年:文化6.9.13(1809.10.21)
幕末老中宮津藩(京都府)藩主。天保11(1840)年に襲封。奏者番,寺社奉行となりその在任中に安政の大獄を担当する。大坂城代,京都所司代を経て元治1(1864)年8月老中。慶応1(1865)年2月,老中阿部正外と幕兵3000を率いて上洛,朝廷幕府の管理下に置こうとして失敗した。翌2年5月,征長先鋒副総督として広島に出張。戦局は幕府・征長軍の不利に進行し,拘禁中の長州藩使節を釈放して和平交渉を始めようとしたが,征長先鋒総督徳川茂承の反発を招き老中を罷免され,次いで隠居謹慎に処せられた。幕府倒壊後,新政府に出仕し教部省に勤務した。

(井上勲)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「本庄宗秀」の意味・わかりやすい解説

本庄宗秀
ほんじょうむねひで

[生]文化6(1809)
[没]1873.11.20. 東京
江戸時代末期の丹後宮津の藩主。天保 11 (1840) 年襲封。藩政の立直しに努め,その後海防尽力万延1 (60) 年大坂城代,元治1 (64) 年老中となり,外国掛として兵庫開港延期交渉にあたった。慶応2 (66) 年第2次長州征伐に際し,先鋒総督徳川茂承と対立,召還されて蟄居を命じられた。維新後教部省に出仕。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「本庄宗秀」の解説

本庄宗秀 ほんじょう-むねひで

1809-1873 江戸時代後期の大名
文化6年9月13日生まれ。本庄宗允(むねただ)の次男。叔父本庄宗発(むねあきら)の養子となり,天保(てんぽう)11年丹後(京都府)宮津藩主本庄(松平)家6代。大坂城代などをへて,元治(げんじ)元年老中。第2次幕長戦争の際,独断で休戦交渉をおこなって老中を免じられ,蟄居(ちっきょ)となる。明治6年11月20日死去。65歳。通称は秀次郎。

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