こぐれ‐りたろう【木暮理太郎】
登山家。
群馬県出身。東京市史の
編纂に携わるかたわら、
日本アルプス、
奥秩父の山々などに登り登山の
普及に貢献した。著「山の憶ひ出」など。明治六~昭和一九年(
一八七三‐一九四四)
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デジタル大辞泉
「木暮理太郎」の意味・読み・例文・類語
こぐれ‐りたろう〔‐リタラウ〕【木暮理太郎】
[1873~1944]登山家。群馬の生まれ。東京市史の編纂に携わるかたわら、登山の普及に貢献した。著「山の憶い出」など。
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木暮理太郎【こぐれりたろう】
登山家。群馬県生れ,東大中退。少年時代から登山を好み,1913年日本山岳会に入会,機関誌《山岳》の編集のかたわら,田部重治〔1884-1972〕とともに案内人なしで槍ヶ岳,薬師岳,劔岳(つるぎだけ),立山に登った。1916年には朝日岳,雪倉岳,白馬岳(しろうまだけ),針ノ木峠を縦走するなど中部地方を多く登山し,かたわらヒマラヤを研究。数多くの山岳紀行や山岳研究を発表し,日本の山岳界に大きな影響を及ぼした。1935年第3代日本山岳会会長。主著に《山の憶ひ出》2巻(1938年,1939年)がある。
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木暮理太郎 (こぐれりたろう)
生没年:1873-1944(明治6-昭和19)
登山家。群馬県生れ。6歳で赤城山に登ったのをはじめ,多くの日本の山々に登った。東京帝国大学中退。東京市史編纂(へんさん)にあたる。1913年日本山岳会に入会,機関誌《山岳》の編集に携わり,山岳紀行,研究を発表。〈東京から見える山々〉という独自の研究もある。その静かな登山態度は,後に盛んになるヨーロッパ型の近代登山に対し,日本的な登山のタイプであった。他方,ヒマラヤ研究も早くから行い,国内のみならず世界の登山への啓蒙も怠らなかった。35年より第3代日本山岳会会長。主著《山の憶ひ出》2巻(1938,39)。
執筆者:徳久 球雄
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木暮理太郎
こぐれりたろう
(1873―1944)
登山家。群馬県生まれ。東京帝国大学中退後、東京市史編纂(へんさん)に従事。幼時に赤城(あかぎ)山に登ったのをはじめとして、秩父(ちちぶ)や南アルプスなどを中心に各地の山岳に登った。1913年(大正2)日本山岳会入会。機関誌『山岳』を通じて多くの研究や紀行文を発表し、登山界に大きな影響を与えた。35年(昭和10)日本山岳会会長、秩父の金峰山麓(きんぷさんろく)金山平に記念碑がある。主著『山の憶(おも)い出』2巻がある。
[徳久球雄]
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木暮理太郎 こぐれ-りたろう
1873-1944 明治-昭和時代前期の登山家。
明治6年12月7日生まれ。志賀重昂(しげたか)の「日本風景論」に啓発され,明治29年ごろから日本アルプス,秩父,上越などで開拓者的登山をおこなう。「山岳」に紀行文やヒマラヤ研究を発表。昭和10年日本山岳会3代会長。昭和19年5月7日死去。72歳。群馬県出身。東京帝大中退。著作に「山の憶(おも)ひ出」など。
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