朝鮮美術(読み)ちょうせんびじゅつ

改訂新版 世界大百科事典 「朝鮮美術」の意味・わかりやすい解説

朝鮮美術 (ちょうせんびじゅつ)

朝鮮は日本と同様に中国文化圏にあって,中国の強い影響を受けてきたが,その文化は風土や民族性を反映して独自な発展を見せている。例えば朝鮮半島は日本に比べて雨が少なく,空気が乾燥しているので,良材や大木が乏しいが,そのかわり良質な石材や陶土,および金属資源に恵まれており,石塔や石仏,金,銀,鉄,銅などの金工作品にすぐれたものが多いのは,大きな風土的特色といえる。また工芸作品に見られる民族性については,素材がもつ自然の美を意識的に保存しようとする自然主義が底流として一貫しており,ある種の繊細さや素朴さに独自の風趣を示している。

朝鮮半島で行われた新石器,青銅器,初期鉄器(原三国)時代の工芸美術は,北アジアや内陸アジアの工芸美術と性格的に深い関係をもっている。そして高句麗,新羅,百済の三国時代(350ころ-668)からは中国の影響がしだいに現れ,統一新羅時代(668-935)以降はそれがさらに強まっている。しかし統一新羅時代以降にあっても,北アジア・内陸アジア的な性格は潜在的に存在していると考えられる。統一新羅時代には中国文化,特に唐文化の摂取がますます盛んになり,技術の練磨や美的感覚の洗練を経て,すぐれた諸作品が生み出されている。

新石器時代以来,朝鮮陶磁は櫛目文土器,灰色硬質土器高麗青磁,李朝の染付などすぐれた伝統を形成してきた。その特質について三上次男は,〈時代ごとに独自の種類の陶磁を作り,使用する傾向のあったこと,しかもそれぞれの時代にあってはただ一種類,一系統のものが愛用され,他の種類の陶磁は極めて少数かつ傍流であったこと,そのような陶磁器の単一的・統一的な在り方は,単一性・統一性を好む朝鮮の社会性あるいは文化性の一面を現しているのではないか。また,このような特性は単に陶磁器にだけ存在するのではなく,百済や高句麗の瓦当の文様をはじめ,高麗時代の金工など美術工芸一般にも認められよう〉と示唆にみちた見解を示している。

 新石器時代の典型的な土器である櫛目文土器のうち,南部のものの多くは砲弾形で,その器形と文様は直截で,同類型を示す。三国時代の灰色硬質土器(新羅土器)は中国の技術を取り入れて発展したものだが,その力強さ,鋭さ,おおらかさは朝鮮半島の古代人の美意識をよく表す。ことに騎馬人物形土器,車形土器,瑞獣形土器,舟形土器などの象形土器に特色が見られる。この灰色硬質土器の技術は5世紀に日本に伝えられ,やがて須恵器を誕生させる。その後,高麗時代(936-1392)になって中国五代の越州窯などの技法が10世紀中期に伝えられ,青磁が焼造され始めた。11~12世紀には当時高麗に盛んに輸入された耀州窯,汝窯などの北方青磁,定窯の白磁や黒磁,さらに竜泉窯青磁の影響を受けて技術がますます向上し,12世紀初頭に青磁は完成の域に達した。そして12世紀中期には高麗陶工の独創による象嵌青磁が考案され,高麗の陶芸は最盛期に至った。高麗青磁に見られる高度な技術による繊細な美は,同時代の仏画がそうであるように,李朝の作品から感得される単純でおおらかな庶民性とは異質である。

 李朝時代(1392-1910)の前期には,前代の象嵌青磁の作風が変質した粉青沙器(三島)が持続的に行われた。その素朴な形姿に新たな陶磁美を見せたが,17世紀以後には面目を一新して白磁一辺倒となる。作域も染付,鉄砂,辰砂などと広がり,独自な優品を続々と生み出した。文禄・慶長の役を契機として日本に李朝陶工が渡来しその結果,有田で初めて磁器が焼造されるなど,日本の陶芸に与えた影響も大きい。

古代の金工には北方ユーラシア大陸の影響が濃厚に現れている。例えば慶尚北道に限って出土する写実的な動物意匠の青銅製帯鉤や,独特な形態と精緻な幾何学的地模様をもつ青銅器,多紐細文鏡,鈴付器具などがその好例である。それらの器形・文様はともに類型性を有しており,やはり北アジア・内陸アジア文化との関連性を示す反面,中国の青銅器文化との直接的な関連はほとんど見られない。三国時代の高句麗,百済,加耶,新羅の墳墓から出土する豪華絢爛な副葬品には黄金が盛んに使われているが,これも北アジアや内陸アジアの古代工芸に見られる黄金愛用の一環を示すものであろう。金冠における〈出〉字形立飾や垂飾にしても,このような形態のものは古代中国には見られない。その伝播は,直接的には遼東地方の鮮卑族から高句麗を経て,新羅で開花したと考えられる。しかし,統一新羅時代になると唐文化の影響を大きく受けて金工の技術が飛躍的に発展し,奉徳寺銅鐘(国立慶州博物館)のような独特な形式を備えた朝鮮鐘も生み出された。高麗時代にも高度な金属工芸技術は伝承され,主として金銀象嵌文様を施した仏具にすぐれた作品を残している。

紀元前にその製作期がさかのぼりうる漆器断片の発見が報告されているが,顕著な製作活動は三国時代,百済の武寧王陵や新羅の慶州諸王陵からの出土品によってうかがわれる。それらの手法には漢代の楽浪郡遺址出土の中国製漆器の影響も見られる。統一新羅時代には官営工厰である漆典が設置され,漆器の製造が盛んになった。作例は慶州雁鴨池(がんおうち)出土の多量の漆器断片で,なかでも珍しいのは黒漆地に朱と黄2色の色漆で文様を描いた漆絵断片と,朝鮮では初めての出土例である黒漆平脱(へいだつ)文の断片である。黒漆平脱(平文(ひようもん))の出土は唐代漆芸の新たな受容を端的に示すものである。高麗時代には自らの創意工夫によって華麗な螺鈿漆器を製作した。また,螺鈿に見られる文様の埋込み技法は,同時代の青磁象嵌や金銀象嵌に共通するもので,中国文化の摂取の上に積極的に国風化が試みられたことを物語っている。高麗螺鈿器は遺存例が少ないが,遺品で見る限り,作品は経箱や念珠箱などの仏具が主であり,高麗時代における仏教隆盛の状況がうかがわれる。《高麗史》によれば,元宗13年(1272)には大々的な大蔵経刊行が行われ,経冊の容器の需要がたかまり,螺鈿経箱をもっぱら製造する鈿函都監を設けている。

 李朝時代は前代を継承して螺鈿器が主流であるが,その作風は高麗の緻密にして精妙な花唐草文が,簡明直截な蓮華唐草文に変容するなど,技法的な低下と螺鈿工芸の大衆化が見られる。文様も花鳥,四君子十長生などの吉祥文を主とした絵画的意匠が幅広く取り上げられた。

 なお,李朝工芸の一種として特筆しなければならないものに木工家具がある。簞笥(たんす),書棚,机,行灯(あんどん)など,機能美を最優先した簡潔,淡雅な造形には,朝鮮美術の底流となっている自然主義的な一面が顕著に表れている。特に儒学を中心とする学問が栄えるなかで,文机,筆筒,手箱,文箱,状差などのすぐれた文房家具が作られ愛用された。それらは室内空間との調和を重要視する長い伝統の下で秩序化,機能化されている。
漆工芸[朝鮮]

朝鮮の絵画は,現存作品に限っていえば,その内容は4~7世紀にかけて制作された高句麗の墳墓壁画,13~14世紀の高麗の仏画,および14世紀末以後の李朝絵画の三つの分野で代表される。それ以外の三国時代の百済や古新羅,それに続く統一新羅時代,ならびに高麗時代前半期などの作例はその遺品がきわめて少なく,高句麗墳墓壁画から高麗後期仏画に至る約500年間はほぼ空白に近い状態といえる。したがって,時代的に大きな隔りのあるこの両者の間に発展的な様式変化の跡をたどることができず,朝鮮絵画史研究の上で障害となっている。

 高句麗の墳墓壁画は,将軍塚,安岳3号墳,徳興里塚など,現在約50基から発見されている。それらは,すぐれた絵画技法と高度に発達した土木技術を土台として成り立ったものであるが,壁画には高句麗人の死生観,日常生活における進取的な気性,あるいは情緒や感情までもが繊細に表現されている。また,墓主夫妻像はその多くが風俗画的な性格を帯び,蓮華文や唐草文などの装飾文様には仏教的色彩がうかがわれる。一方では天界図等に道教的要素も現れているなど,中国の思想的影響が顕著である。なお,巧みに描かれた人物や動物とは対照的に,背景の山岳は太い線と細い線を波状に重ねて象徴的に表され,山水の表現がいまだ初歩的な段階にとどまっていることを示している。高句麗の墳墓壁画は作風的には中国の東晋末および北魏の影響を強く受けているが,東アジア最古の絵画を代表する貴重な遺品群であり,さらに日本の飛鳥時代の高松塚古墳壁画と密接な関係を有するものとしても,近時ますますその意義が広く認識されるようになった。
高句麗
 高麗仏画は高麗時代における仏教の隆盛や美術思想の高揚に伴って盛んに制作されたものと思われるが,中国宋代の絵画の大きな影響による繊細巧緻な技巧が駆使されて,貴族的な高い気品と洗練された美しさを備えている。その作風的特徴としては,まず中国の《歴代名画記》に記された唐代の名画家周昉が創めたと伝えられる水月観音像の図像様式や,その系譜の跡をとどめる敦煌仏画の様式が継承されていることがあげられる。おそらく,8世紀後半に活躍した周昉の様式が9世紀前半に朝鮮に伝えられ,その後この図像が高麗仏画の中に定着し,図像上の伝統を墨守しながらさまざまに発展して制作されたと考えられる。また,被帽地蔵などに見られる精密な細部表現で画面を覆いつくすような装飾主義的傾向は,高麗仏画が荘厳性に富む礼拝画としての実用的な性格を強く保持し続けてきたことを示している。画面の色調からは北方的な一種の重厚さが感じられるが,その重厚な暗さはあでやかな金彩色によって特徴づけられている。

 李朝時代は国家の指導原理として仏教に代わって儒教が採用され,美術の様相も大きく変化した。絵画はその初期においては新たに興った中国明朝の画風,後期には清朝画壇の影響を受けながら発達した。特に高麗時代から宋,元の影響によって隆盛し始めた水墨画が士大夫によって愛好され,作風もより国風化したことが特徴といえる。儒林の士人たちは教養の一端として余技で作画を楽しんだが,それらの作品は中国の古典に依拠し,儒者の教養に関係する類の画題が多く,儒画と呼ばれた。これら文人以外にも,宮中の画事に携わる図画署(とがしよ)の画員やその他の職業画家が活発な絵画活動を展開した。すなわち,この時期の絵画は,文人の社会を中心にした詩・書・画一致の主観的理想主義とでもいうべき絵画と,図画署を中心にした客観的写実主義とでもいうべき絵画の二つに大別できよう。その内容は多岐にわたるが,特に文人や画員によって描かれた水墨画の山水や四君子,および儒教の祖先崇拝から生まれた肖像画(影幀)などに優れた成果がみられる。

 李朝の絵画を画壇や流派の面から見てみると,中国や日本におけるほどに流派的分化や画壇の広がりが見られない。文人たちや図画署の専門画工による正統派絵画は,王家を中心とした国都ソウルや商都開城などのごく限られた都市部の上層階級だけに受け入れられる形で存在したもので,このことはこの種の作品を広く迎える町人社会および地方都市が李朝下では十分に形成されなかったことを示している。しかし,李朝の絵画はこの正統的絵画だけではない。むしろ庶民階級における絵画の需要は大きく,量的には正統的絵画をはるかに超える厖大な作品が制作されている。これらの作品は庶民の日常生活に結びついた〈李朝民画〉と通称されるもので,日本では柳宗悦を中心とした民芸運動の中で注目,紹介され,その独特な絵画美が,あたかも朝鮮絵画を代表するかのようにも扱われてきた。

三国時代の4世紀末に仏教が朝鮮半島に伝えられ,彫刻は仏像を中心に展開する。その初期には3国とも中国仏像の直模的な表現による扁平で硬直した体軀,衣紋が左右対称に広がる正面観主体のものが造られた。高句麗は3国のうちで最も早く仏教および仏像を受け入れたが,遺品はきわめて少ない。遺品のほとんどが小金銅仏であり,その代表的な様式は三尊仏である。遺品中で最古のものは延嘉7年(539)の造像銘をもつ金銅如来立像である。高句麗の仏像はその地理的関係から中国の北魏を主とする北朝様式の影響を強く受けている。

 百済の仏像はほぼ600年ころを境にして前期と後期に分けられる。前期は一光三尊形式の小金銅仏や小型石造の半跏像などが中心であるが,6世紀後半にはまだ中国六朝や高句麗系の様式が残っている。後期には比較的大きな金銅仏や石窟寺院形式の磨崖石仏,大型石仏が造られており,7世紀前半に至って隋・唐両王朝の新しい影響を受けながら百済独自の作風を帯びるようになった。顔は丸く温和で,〈百済の微笑〉と呼ばれる特有な笑みを浮かべている。百済は6世紀前半に日本に仏教を伝え,飛鳥,奈良の地に仏教文化を開花させたが,その仏像製作には百済の帰化人の手が大いに及んでいるものと考えられる。

 古新羅の仏像は弥勒信仰を背景とした弥勒仏や半跏思惟形の菩薩像の製作が盛んであったことが特色である。2体の大型金銅半跏思惟像(ともにソウル国立中央博物館)は3国中のいずれの王朝の造像であるのか不明だが,そうした弥勒信仰を背景として生まれたものであろう。古新羅末期にはこれらの金銅仏とともに石像も発達し,三尊像や半跏像も造られた。

 続く統一新羅時代には3国それぞれの仏像様式が統合され,石像,銅像,塑像など多くの仏像が造られ,現存する作品も少なくない。特に統一以後盛んであった阿弥陀信仰による造像と,薬師信仰による金銅像の盛んな造成が注目される。この期の最大の傑作は慶州吐含山の石窟庵本尊の如来石像とその一群の脇侍たちである。石窟庵本尊の偉容は東洋各国の石仏中の精華とも称えられているが,これは新羅の石像彫刻の200年にわたる伝統の上に完成されたものであり,また良質な石材に恵まれた朝鮮の風土と民族の造形感覚との密接な関係を示すものといえよう。しかし,石窟庵の石仏群を頂点として,以後,朝鮮の仏像は作風の低下をきたしていく。高麗時代は前代に引き続き仏教は盛んで,仏教美術は諸方面に新たな展開を見せるが,仏像は秀麗にして力感に満ちた前代のそれを凌駕することができなかった。
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三方が海に囲まれ,四季の変化に富み,山が多く平地の少ない朝鮮の自然環境は,島国日本と同様に独自の地方文化をはぐくんだ。建築では住居にその自然環境による差異がよく現れている。中国大陸と陸続きで寒冷期の長い北部の気候は,紙貼りの土間床式のオンドルを発達させ,また,温暖な南方では床を上げた板敷間を中心にしてオンドル部屋をL字形,コの字形に連ねた朝鮮独特の民家建築をつくりあげた。これは土間床のみの中国と板敷床の発達した日本の民家の性格を兼ね備えたものともいえよう。

 朝鮮の木造建築に最も多く使用されている木材はアカマツで,日本のヒノキやスギのような良材は得られない。アカマツには大材が少なく,樹脂を多く含み,屈曲材が多いために加工精度が悪いなどの欠点がある。しかし,垂木や梁には丸太材や屈曲材を巧みに利用して意匠的効果をあげ,仕上がり精度の悪さは彩色を施して解決するなど,材質上の制約はかえって李朝期に民族的色彩の強い建築を生じさせた要因になっている。

 朝鮮建築の特性としては,他に古式技法をよく残している点があげられる。外寇による相次ぐ戦乱のため,多くの木造建築が失われ,古代建築は石造物を除き木造建築はまったく残存しない。しかし,高麗時代の建築にみられる柱の胴張り(エンタシス)や,隅柱を高くして軒反り(のきぞり)をつける隅増し技法,側柱の内転び,扇垂木などの技法は,中国唐代の建築の影響を受けて高麗時代に継承された古式技法である。丸太材のままの扇垂木や,強い軒反り,小屋裏をつくらない化粧天井などの古式は現在もなお根強く伝承されている。このような朝鮮建築の特性は,同じく唐の様式を基本としながら,良材を得て早くから技術的改良を加えて和様化の道を歩んだ日本建築と対照的で,大陸的な壮大さを保ちつつ民族的な個性を発揮したものである。

 以下では三国時代の建築について概観するが,高麗時代および李朝時代の建築については〈高麗美術〉〈李朝美術〉の項目を見られたい。

朝鮮半島の南西部を占めた百済は,高句麗との抗争の間に3度都を変えた。4世紀にソウル近くの漢山城に都を定め,470年ころには錦江中流の熊津に,538年には錦江下流の泗沘(現,扶余)に遷り,660年に唐・新羅連合軍と争って滅亡した。百済は3国のなかでも最も築城が多く,木柵と土城の多いのが特徴である。各都城には防備のための山城を設けたが,首都泗沘を防御するための扶蘇山城と市街地を囲む羅城(外城),そして扶蘇山城の周囲を包む中城を備え,さらに外郭山城として甑山城,青馬山城,石城山城,聖興山城を配して王都を防備している。

 百済に仏教が伝えられたのは4世紀末ころで,扶余の一帯には寺址が多く,定林寺址,軍守里寺址,金剛寺址,東南廃寺址などがあり,伽藍配置は中軸線上に中門,塔,金堂,講堂を配したいわゆる四天王寺式である。仏塔では益山弥勒寺石塔,扶余定林寺石塔などが現存するが,木造塔も多く建てられた。これらの寺址から出土する瓦塼は,3国のうちで最も優美で,豊富な文様構成をもつ。なかでも素弁蓮華文瓦は日本との関連を示し,日本の初期仏教建築に与えた影響を認めることができる。

高句麗

高句麗は後1世紀ころ,鴨緑江中流の通溝に拠を構え,3世紀ころには国内(輯安)城と山城の子山城を築いたが,4世紀ころには大同江下流の平壌に都を遷した。初めは大城山一帯と安鶴宮を中心にしていたが,586年(平原王28)に平壌城を築いて都とした。平壌城は内城(王宮),中城(官衙),外城(市街地),北城(防御)で構成された平山城で住民全員を城内に収容できるほど大規模であった。高句麗の山城は三方が絶壁に囲繞され,南方に緩斜面の地を選び,山の稜線や絶壁に沿って城壁を築いた堅固な要塞であった。この築城方式は百済や新羅でも採用され,また,石築の方法などとともに百済を通じて北九州の築城にも影響を与えた。

 4世紀後半に仏教が高句麗に導入されて各地に大規模な伽藍が建設された。平壌の東北にある清岩里廃寺,上五里廃寺址,平原郡元五里廃寺址などの寺址が有名である。清岩里と上五里は八角の建物を中心に左右と後方の3方に仏殿を配し,日本の飛鳥寺との伽藍配置の類似が注目される。高句麗の建築様式は安岳1号・3号墳(4世紀中ごろ),角抵塚,舞踊塚(ともに4世紀末ころ),徳興里塚(408),双楹塚(5~6世紀)などの墳墓壁画によって知ることができる。朱塗りの柱上に枓栱(ときよう)をもち,中備えに人字形割束(わりづか),大梁上に叉首(さす)を置き棟を受ける。屋根は瓦葺きで大棟両端と中央に装飾瓦を飾り,大棟中央に焰型を飾るものもある。壁画は当時の王室・貴族の住宅形式をよく表しているが,皿斗付きの大斗や巻斗,人字形割束,肘木(ひじき)下端の舌の表現などは法隆寺と同種であり,中国から高句麗を経て日本への文化伝播の一端がうかがえる。

朝鮮半島の南部,日本海側に建国した新羅は,小部族国家連合体として発足し,やがて統一専制国家となり,7世紀には半島を統一した。首都慶州には,当初は南川に沿う半月形の低丘陵上に月城を築き,王宮を構えた。周囲に羅城を備えず,東に明活山城,南に南山城,西に西兄山城,北に北兄山城を設けて羅城の役割を果たした。

 新羅に仏教が伝えられたのは高句麗,百済より遅く528年(法興王15)といわれ,次の真興王(540-576)代には興輪寺(544),皇竜寺(574),善徳女王(632-647)代に芬皇寺(634),皇竜寺塔など,各代の王は競って各地に仏寺を造営した。三国統一前後から唐との交流が頻繁になり,その影響を受けて統一新羅の文化を発展させた。慶州の四天王寺や望徳寺,浮石寺など多くの寺院が建てられたが,木造建築は現存せず,石造物にすぐれた遺品が多い。
高麗美術 →李朝美術
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「朝鮮美術」の意味・わかりやすい解説

朝鮮美術
ちょうせんびじゅつ

中国文化圏にあった朝鮮では、美術面でも中国の強い影響下にあったが、風土や民族性を反映して独自な発展を示している。同じ中国の影響下にあった日本と比べても、雨が少なく乾燥している半島では良材に乏しく、そのかわり石材や陶土、金属資源に恵まれているため、石造建造物や石仏、陶芸、そして金属工芸などに優品が多い。

[永井信一]

朝鮮美術の源流

朝鮮半島の先史時代が旧石器時代にさかのぼることは、従来からかなり確実性の濃いものと考えられていた。しかし、1973年以降、旧石器遺跡の発掘が相次ぎ、とくに近年発掘された文谷里(ぶんこくり)(韓国忠清北道丹陽郡赤城面)のものは、2万点を超す膨大な遺物と47か所の石器製作所が確認されたという点で、学界の注目を集めている。この遺跡は忠州ダム建設地域調査によって発見されたもので、単一遺跡としては朝鮮半島最大の面積を有し、旧石器時代中期・後期のものであることが実証された。

 新石器時代の遺跡や遺物は各地で発見されているが、その上限はおそらく紀元前3000年ごろまでさかのぼるといわれている。この時代の指標となる土器の遺物は櫛目文(くしめもん)土器で、これはシベリア地方から広まってきたものである。櫛目文土器の器形は一般に単純な形の丸底や尖底(せんてい)で、深鉢、甕(かめ)、皿、碗(わん)などがある。文様は、串(くし)状あるいは櫛歯状の簡単な道具を用いて、口縁部や胴部、または底部の周縁に施した幾何学的文様が主体であるが、その細部をみると、北東朝鮮出土のものと南朝鮮出土のものとでは違いがあり、シベリア沿岸地方で発見される土器と共通点のあることが注目される。

 櫛目文土器の次につくられたのは無文土器で、これは朝鮮半島における青銅器時代の指標をなす。土器の表面に赤褐色の顔料(酸化鉄)を塗り、それを磨いたもので、その源は中国の甘粛(かんしゅく)省を中心とする華北の彩陶の系統にあるといわれるが、鉱物資源に富む朝鮮陶芸の技巧上の原形が、すでにこのときつくられつつあったことはきわめて注目すべきことである。櫛目文土器の時代はまだ原始農耕の域を出ず、狩猟・漁労が生活の基盤であったと考えられるが、赤褐色無文土器の時代になると、かなり規模の大きい農耕生活が基盤となっていたことが推察される。

[永井信一]

彫刻

先史時代の遺物には、日本の土偶・土面などに匹敵する美術的価値のあるものは、現在のところまだみられない。三国時代の4世紀ごろになると、新羅(しらぎ)の古墳から発見された人物、馬、虎(とら)、水鳥、水牛、蛙(かえる)などの小さな土偶類がみられ、5世紀末ごろの慶州・金鈴塚(きんれいづか)出土の騎馬武人型容器には、古代朝鮮民族の素朴で人間味のある表現がみられるが、その土の扱いや単純明快な造形感覚は、のちに陶芸のなかで開花するようになる。

 中国からの仏教伝来は、高句麗(こうくり)へは372年、百済(くだら)へは384年で、新羅へもこれと前後して伝来したものと思われる。以後、彫刻は仏像を中心に展開する。しかし現在のところ、4、5世紀につくられたと思われる仏教美術の遺品はみられず、現存最古の在銘像は高句麗の延嘉7年(539)の金銅如来(にょらい)立像(ソウル・国立中央博物館)である。1963年、慶尚南道宜寧郡大義面下村里で発見されたこの像は、刻銘に「高麗国楽良」の文字があり、様式的には6世紀初頭の北魏(ほくぎ)仏の模倣の跡が著しい。また、黄海道出土と伝える辛卯(しんぼう)(571)銘の金銅無量寿像(阿弥陀(あみだ)像)も、銘文中の供養者名から高句麗のものと推定されるが、これは東魏様式を踏襲した一光三尊形式である。

 高句麗は三国のなかでも、地理的にもっとも中国に近く、漢文化の影響をいちばん強く受けていたから、仏像製作はもっとも進んでおり、古新羅や百済もこの高句麗の先進文化の後を追った。しかし、のちには百済の仏教文化がもっとも華やかに栄えた。その首都であった公州および扶余(ふよ)を中心に建立された寺院の規模もかなり大きく、造像のうえでもかなり進んだものがあったと考えられるが、今日残るのは小さな石像、小金銅像だけで、その全般をうかがい知ることはできない。一方、古新羅では慶州を中心に仏教文化が栄え、552年には九層塔を有する皇竜寺のような大寺院が建立され、近年の発掘調査により、往時の盛観がしのばれるようになった。慶州の北部栄州、安東の両地域から出土したといわれる金銅半跏思惟(はんかしい)像は小像であるが、高句麗仏の影響の濃いものであることは注目される。このように6世紀中期までの三国時代の造像は高句麗のそれを手本につくられたが、6世紀後半に入ると、百済は中国南朝梁(りょう)と関係を結び、梁を通して南朝様式が取り入れられたことが、乏しいながら遺品のうえにうかがえる。古新羅は、前半の高句麗様式を受け継いでいった。

 6世紀前半から朝鮮半島でつくられた弥勒(みろく)半跏思惟像はかなりの数に上り、現在個人蔵になっている平壌出土のものは、そのなかでも最古の作と考えられる。そして、この形式の仏像の盛行は、高句麗の影響によるものと思われる。ソウルの国立中央博物館には、6世紀後半の仏像彫刻を代表する2躯(く)の金銅弥勒半跏思惟像がある。ともに等身大の優品で、両像とも出所については所伝がいろいろで、確かなことはわかっていないが、一見してその様式に大きな相違のあることがわかる。とくにそのうちの一つは、「宝冠弥勒」とよばれる京都・広隆寺の木造弥勒半跏思惟像に酷似している。この両像の様式の違いをどのようにみるかは、朝鮮古代彫刻の系譜を決定づける重要なポイントになるところから、十分な資料のそろわない現状では速断は避けるべきだが、あえて推量するならば、広隆寺像と似ている像は、全体のつくりが簡明で温和な作風を示し、百済美術の特色をよく表している。これに対し、もう一つの像は、宝冠の意匠や着衣の表現にいかめしい装いが感じられ、古新羅の造像の傾向の一面を示している。この2像に限らず、出土地や出所の不明な金銅仏の多いことは、朝鮮古代彫刻の解明に大きな障害となっているが、これに比べると、石仏や磨崖(まがい)仏(摩崖仏)は重要な示唆を与えてくれるし、美術的にも優れたものが多い。

 7世紀に入ると、古新羅、百済はそれぞれ独自の造像の経過をたどったが、それを立証する石仏が新しく発見された。一つは慶尚北道の慶州と安東を結ぶ国道の中間にある軍威郡南山洞石窟(せっくつ)の阿弥陀三尊像、他は百済の故地、忠清南道瑞山(ずいさん)市雲山面の磨崖の三尊像で、両者の作風の違いは、古新羅と百済の造像の傾向を端的に示している。とくに瑞山の磨崖仏の脇侍(きょうじ)の一つは半跏思惟像の形姿をとり、全体に穏やかでまろやかな感じにあふれている。そして口元にみられるこぼれるような微笑は、「百済のほほえみ」と韓国の美術史家が名づけたように、百済仏の造像理念をもっとも顕著に表したものである。

 677年以降の統一新羅時代は、中国では唐代にあたる。積極的に唐の文化を受け入れたこの時代は、仏教文化が隆盛し、石像、金銅像、塑像など盛んにつくられ、現存するものも少なくない。初期の遺品では、塼造(せんぞう)四天王像(慶州・四天王寺址(し)出土)、感恩寺(682ころ創建)址西塔納入舎利容器付随の半肉(はんにく)彫り金銅四天王像が注目され、唐代彫刻との密接な関係を物語っている。しかし、統一新羅の仏教美術の精華を伝えるのは、慶州南山の石仏群と、同吐含山の石窟庵(あん)で、数多い南山石仏のなかでは、巨大な岩面に半肉彫りで刻まれた神仙庵の菩薩(ぼさつ)半跏像がとくに優れている。また石窟庵本尊の石造釈迦(しゃか)如来坐像(ざぞう)とその一群の脇侍は、新羅工人の200年にわたる伝統と独自の感覚を造形化したもので、優雅典麗ななかにも雄渾(ゆうこん)な民族精神が込められている。

 8世紀後半に入ると、衣文の表現と像容に特色のある形式をもった小金銅仏(新羅金銅仏)がつくられるようになるが、その形成の系統についてはまだ明らかでない。また新羅の彫刻では、仏像のほかに、墳墓の周囲にはめ込まれた浮彫りの石像が注目される。十二支の動物を擬人化し守護神としてつくられたもので、中国にも例をみない優れたものといえよう。9世紀に入ると仏像の作風はしだいに低下するが、定林寺や到彼岸寺の毘盧遮那(びるしゃな)仏のような鉄仏が盛んにつくられ、その傾向は高麗(こうらい)時代の初めまで続く。高麗も仏教を国教としたので、仏教美術は各方面に新展開をみせたが、仏像は様式的にみるべきものはなく、前代を凌駕(りょうが)することはできなかった。

[永井信一]

絵画

朝鮮の絵画史をみるとき、現存する作品から、次の三つの時期に限られる。すなわち、高句麗の古墳壁画(4~7世紀)、高麗末期(13~14世紀)の仏画、李朝(りちょう)(14世紀以降)絵画であり、それ以外の百済や古新羅、統一新羅時代、高麗前半期の遺品はきわめて少なく、8~12世紀の約500年については空白に近い状態といってよい。

[永井信一]

高句麗の古墳壁画

高句麗時代の壁画古墳は、主として北朝鮮の平壌市、南浦市、平安南道、黄海南道、および中国の吉林(きつりん)省集安市に分布し、『高句麗古墳壁画史料集』(1985・高句麗文化展実行委員会刊)によると、その数は83に達している。最古の壁画は安岳(あんがく)3号墳(黄海南道)のもので、永和13年(357)紀年と埋葬者冬寿の銘をもつ。ほかに将軍塚(吉林省集安市)、江西大墓、徳興里(とっこうり)(ともに平安南道)などが知られる。壁画の主題は人物風俗画を描いたものが最初で、4世紀後半になると人物に四神図(青竜、朱雀(すざく)、白虎(びゃっこ)、玄武(げんぶ))が加わり、6世紀中ごろに下ると、石室の壁面に直接描いた四神図が中心になる。作風的には、中国の東晋(とうしん)末および北魏の影響を強く受けているが、東アジア最古の絵画を代表する遺品として重要であり、近年では日本の飛鳥(あすか)時代の高松塚古墳壁画との類似性からも、その意義は広く注目されるようになった。

[永井信一]

高麗の仏画

中国宋(そう)代絵画の影響を受けて、高麗時代には繊細な技巧を駆使した仏画が多数描かれたが、遺品は末期に集中し、その数も少ない。しかし、わが国にも伝来しており、日本銀行の『阿弥陀如来像』、京都・知恩院と和歌山・親王院の『弥勒下生(げしょう)経変相図』、東京・根津美術館と京都・玉林院の『阿弥陀如来坐像』、東京・浅草寺と奈良・長谷(はせ)寺などの『楊柳観音(ようりゅうかんのん)図』、静岡・MOA美術館と京都・松尾寺の『阿弥陀三尊像』、奈良・東大寺の『香象大師像』などによって、美しい文様表現を特色とする高麗仏画の一端をうかがうことができる。なお仏画以外の鑑賞画では、仁宗から毅宗(きそう)朝(1123~70)ごろに活躍した李寧(りねい)が、入宋(にっそう)の際その妙手を徽宗(きそう)に激賞されたという記録があり、中国への傾斜の強かったことがうかがえる。

[永井信一]

李朝絵画

14世紀末から20世紀初めまで続いた李朝では、前代の仏教にかわって儒教が国教として採用され、その結果、美術も大きく変わった。絵画は、初期には中国の明(みん)朝の、後期には清(しん)朝の影響を受けつつ発達するが、とくに高麗時代から宋・元の影響のもとに愛好され始めた水墨画が文人の余技として盛んに描かれている。一方、官制の画院(図画署(とがしょ))では、専門画家が写実的な鑑賞画を制作、代表的な画員に初期の安堅(あんけん)(15世紀中期に活躍)、鄭(ていぜん)(1676―1759)、金弘道(1745―?)がいる。また儒教の祖先崇拝から肖像画も画員、文人によって広く描かれたが、これらは人物の全容を画面いっぱいに正面から描写する独特の形式をみせている。

 以上の上層階級のための正統派絵画のほか、庶民の絵画の需要にこたえて、膨大な作品が制作されている。日常生活と結び付いた民衆の生活感情を生き生きと表現したもので、「民画」と通称される。人物図、花鳥図、文房図などのほか、儒教の徳目の文字(忠・孝・信・礼など)を独特の書体で書き、それを草花・動物などで装飾した文字絵があり、いずれも民間信仰的な象徴性にあふれる。無名の民間画家によるそのユニークな造形美は、現代人にも強く訴えるものがあり、日本では柳宗悦(やなぎむねよし)らの民芸運動のなかで紹介されて広く知られるに至った。

[永井信一]

工芸

金工

金属資源に恵まれた朝鮮半島には、古くから優れた金工品が多い。三国時代の高句麗、百済、加耶(かや)(加羅)、新羅の墳墓からは、豪華な黄金製の副葬品が出土しているが、なかでも慶州の金冠塚、金鈴塚、瑞鳳(ずいほう)塚、天馬塚などから発掘された金冠その他の副葬品、1971年に武寧王陵(忠清南道公州市)で発見された王と王妃の金製冠飾および金銀製の飾り金具は、新羅と百済のそれぞれの工芸の粋を集めたもので、典雅な趣(おもむき)にあふれたなかにも両者の作風の違いがみられる。

 また、朝鮮の鋳造技術を代表するものに梵鐘(ぼんしょう)がある。中国唐代の梵鐘を祖型とし、統一新羅時代に盛んに鋳造されたが、朝鮮鐘(しょう)とよばれる独自の特殊な形式をもつ。国立慶州博物館にある奉徳寺鐘(聖徳大王神鐘、エミレの鐘)は、高さ3.33メートル、口径2.27メートルの優美な巨鐘で、表面に鋳出された宝相華(ほうそうげ)文や飛天はきわめて繊細流麗である。以後、朝鮮鐘はその形式を踏襲して高麗、李朝でもつくられたが、しだいに小型化、粗雑化した。日本にも南北朝時代から多数もたらされ、福井県常宮(じょうぐう)神社などに40余口が現存する。

[永井信一]

陶芸

三国時代には、中国の技術を導入して、灰色硬質土器がつくられた。とくに騎馬人物や瑞獣などをかたどった象形土器は、力強く、おおらかな民族性をよく示している。高麗時代の10世紀中期、中国五代の越州窯(えっしゅうよう)の青磁技術を導入して、いわゆる高麗青磁の焼造が始まる。その技術は目覚ましい発展を遂げて、12世紀には、ほのかな灰色を含む沈んだ深い青釉(せいゆう)の翡色(ひしょく)青磁、白土・赤土を象眼して細かい文様を表した象眼青磁が考案されて、高麗の陶芸は頂点に達した。

 李朝時代になると、前期には前代の象眼青磁の流れをくむ粉青沙器が焼造され、15世紀に最盛期を迎える。これは日本では三島(みしま)、刷毛目(はけめ)とよばれ、素朴な形姿で新たな展開を示すが、17世紀以後は、中国の元・明代初期の影響によって白磁が焼造されるようになり、李朝陶磁の主流となってゆく。そして、作域も染付(そめつけ)、鉄砂(てっしゃ)、辰砂(しんしゃ)などと広がり、独自の優品が次々に焼かれた。日本で茶道の盛行とともに「高麗茶碗」として珍重された茶碗は、この李朝の日用雑器的なものである。

[永井信一]

漆工

漆工品は紀元前からつくられていたことが遺品の断片から推定されるが、製作が盛んになるのは三国時代以降で、百済の武寧王陵、新羅の慶州諸王陵の出土品がある。しかし、遺品のうえからは高麗時代以降のものが大部分を占め、陶芸に示された象眼技術がこの分野にも用いられて、仏具・家具・文房具などに優れた螺鈿(らでん)工芸品がみられる。また、李朝末期につくられた木工家具は、素朴ななかにも飾らない形の美しさがあり、李朝の焼物と同様の、自然主義的な一面をよく示している。

[永井信一]

建築

日本の飛鳥時代の寺院、四天王寺や飛鳥寺の伽藍(がらん)配置は、百済や高句麗のものを模してつくられたものであるが、いずれも寺址としてプランが確認されるだけで、遺構は失われている。日本と同じく、木造の寺院が三国時代から造営され、統一新羅時代に入ると造寺の気運は一段と盛んになったが、当時のもので現存するものはなく、石造物に優れたものが残る。代表的なものは慶州・仏国寺の釈迦塔と多宝塔の二つの石塔で、前者は別名無影塔ともいい、方形三層、同形式のものが他にもみられるが、石組技巧に優れる。そして相対するユニークな構造形式の多宝塔と際だった対照を示している。

 韓国に現存する木造建築の最古の遺構は、浮石(ふせき)寺(慶尚北道栄州市)の無量寿殿で、高麗時代13世紀後半ころの建立と推定される。桁行(けたゆき)五間、梁間(はりま)三間、入母屋(いりもや)造、柱に強いエンタシスをもち、日本の大仏様建築同様、宋風建築の手法が用いられている。

 李朝時代に入ると、漢陽または漢城とよばれた今日のソウルが城郭都市として設計され、石造の城壁を巡らし、南大門、東大門ほか六つの小門を開き、内部には景福宮をはじめ徳寿宮、昌徳(しょうとく)宮などが営まれた。それらも南大門(1396)を除き、壬辰・丁酉倭乱(じんしんていゆうわらん)で焼失し、現存宮殿はその後の再建である。様式としては、高麗末に元から輸入された多包様式(柱頭はもとより柱間にも斗栱(ときょう)を置いて複雑でにぎやかな外観を形成する)、および柱心包(ちゅうしんぼう)様式(斗栱は柱頭だけで、柱間には間斗栱を置き、肘木(ひじき)には刳形(くりがた)が入る)があるが、仏教寺院を中心に発展した柱心包様式は、仏教が首都から締め出された結果しだいに廃れ、自由奔放な外観の装飾性を強調する多包様式が木造建築の主流となった。再建された今日の宮殿建築の造形に、その特色がよく示されている。

[永井信一]

『金元龍著、西谷正訳『韓国美術史』(1976・名著出版)』『金元龍著、西谷正訳『韓国考古学概説』増補改訂(1984・六興出版)』『韓国国立中央博物館編『韓国国立中央博物館名品図録』(1972・大日本絵画)』『韓国国立中央博物館編『新羅の古美術』(1975・学生社)』『金基雄著『朝鮮半島の壁画古墳』(1980・六興出版)』『伊丹潤著『朝鮮の建築と文化』(1983・求龍堂)』『久志卓真著『朝鮮の陶磁』(1974・雄山閣出版)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「朝鮮美術」の意味・わかりやすい解説

朝鮮美術
ちょうせんびじゅつ

朝鮮は,各時代にわたって中国大陸および北方民族の影響を強く受けながらも,簡素で繊細な独自の美術を生み出した。原始美術には新石器時代の櫛目文土器や金石併用時代の丹塗磨研土器,彩文土器があり,軽快で素朴な形態や文様に,のちの朝鮮美術全体に共通する基本的な性格をみせている。古朝鮮から三韓時代にかけての遺品としては,精巧な金属器や漆器が著名であるが,これは大陸の漢民族文化の強い影響のもとで作られたものであり,朝鮮民族独特の造形感覚を示すものとしては,金海式土器の類があげられる。三国 (高句麗,新羅,百済) 時代の美術品には仏教関係の遺品が多いが,高句麗古墳壁画や新羅古墳出土の金冠のように,朝鮮独特の世界を表わしているものもある。統一新羅時代は仏教美術の全盛期で,首都慶州を中心に石塔や石仏など無数の遺跡,遺物がある。また寺院建築に用いられた瓦当や (せん) ,ならびに新羅焼とも呼ばれる硬質陶器など土の工芸も盛んで,独創的な形と意匠をみせている。高麗時代も仏教美術が主であるが,前代のような力強さが薄れ,表現が繊細になった。象眼青磁や高麗螺鈿 (らでん) は朝鮮の民族美術の代表的なものである。李朝時代は儒教が国教となり,美術もやがて形式化したが,壮大な城郭や宮殿建築がすぐれた。とりわけ白磁や李朝染付などの陶磁器や風俗画などに,おおらかな朝鮮美術の特質が現れている。現代はこうした伝統的な朝鮮民族美術を受継ぎながら,西欧美術を受容し,新しい現代美術を創造している。

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