服部智恵子(読み)はっとりちえこ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「服部智恵子」の意味・わかりやすい解説

服部智恵子
はっとりちえこ
(1908―1984)

バレリーナ、振付師。ロシアのウラジオストクに生まれる。京都の桃山女学校卒業後、リュジンスキー、エリアナ・パブロワEliana Pavlova(1899―1941)に師事。パブロワ死後、1944年(昭和19)同僚の島田廣(ひろし)(1919―2013)と服部・島田バレエ団を結成。第二次世界大戦後、第一次東京バレエ団による『白鳥の湖』日本初演(1946)で王妃を演じた。創作バレエの上演に意欲を示し、『恋は魔術師』『さまよえる肖像』『令嬢ジュリー』などを発表。1965年(昭和40)バレエ団を解散し、3年間パリに滞在、パリ・バレエ団に参加、1969年に帰国後日本バレエ協会会長になり、後進の指導にあたった。紫綬(しじゅ)褒章(1969)を受章没後、服部智恵子賞が創設(1985)された。

市川 雅・國吉和子]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「服部智恵子」の意味・わかりやすい解説

服部智恵子
はっとりちえこ

[生]1908.12.25. ウラジオストク
[没]1984.3.30. 東京
舞踊家。リュジンスキー,E.パブロワに師事,1944年『盲鳥』を振付け,上演し,これが事実上服部・島田バレエ団の旗揚げとなった。第2次世界大戦後,東京バレエ団の創設に参加,次いで 1947年以後は服部・島田バレエ団の活発な公演活動の中心になり,『レダの白鳥』『月光の曲』などを発表。 1965年同団を解散し渡仏,A.ガリーナのバレエ団に参加したのち 1969年帰国。 1971年日本バレエ協会の会長に就任した。 1969年紫綬褒章,1977年橘秋子賞を受けた。夫の島田広も舞踊家。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「服部智恵子」の解説

服部智恵子 はっとり-ちえこ

1908-1984 昭和時代の舞踊家。
明治41年12月25日ウラジオストク生まれ。リュジンスキーに師事。大正14年帰国,パブロワ-バレエ団にはいる。昭和19年夫島田広と服部・島田バレエ団を結成。戦後,創作バレエ「令嬢ジュリー」などを発表。40年バレエ団を解散して渡仏。46年日本バレエ協会会長。昭和59年3月30日死去。75歳。桃山女学校卒。

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